パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~2-6
息を覚知する時、単純に、息自体を察知する必要がある。
という事は、全体的な概念でそれを認識するべきであって、息に含まれる個別の特徴、たとえば、息の冷たさ、熱さ、硬さ、軟らかさ、推進性、湿気、滑らかさ等々に、注意を払ってはならないのである。
それは例えば、一人の人間を見たときに、ただ単純に、これは人であると思うだけでよく、彼の皮膚の色、髪型、体形等々を分別しない、という事と同じである。
実際、冷たい、熱い、推進性等の個別の特徴は、息の中の四大の相である。
もし、これらの相に注意を払うと、四大の観察をしている事になり、安般念の修行ではなくなる。
これらの相は、総合すると息であり、故に、安般念を修行する時は、ただ息自体を一つの全体的な概念としてとらえる必要があり、(+あなたは)それに対して、軽く覚知を保持し続ければ、それでよい。
仏陀は《大念処経》(Mahāsatipṭṭhāna Sutta)の中において、安般念の初心者は、息の長短を知っている必要がある、と述べている。
その意味は、息の過程を覚知する練習をしている時、ある時においては、付帯的に、息の長短に知ることがあってもよい、ということである。
ここで言う「長短」とは、吐く息の始まりから終わりまでと、吸う息の始まりから終わりまでの、それが経過する時間の長さを言うのであって、距離の事を言っているのではない。
呼吸の速度が遅い時、(+呼吸に使う)時間は長くなる;呼吸の速度が速い時、(+呼吸に使う)時間は短くなる。
呼吸する時間の長短を知る目的は、息において正念を保持するのを支援する事であって、故に、それは大まかに知っていればよいのであって、息がどれくらい長いかによって、長いと言うべきか、どれくらい短いかによって、短いと言うべきか等というように、わざわざそこへ多大の注意を払うべきではないし、また、一回ごとの呼吸について、その長短をどのように判断するべきかなどの(+判定作用を)、己に要求する必要はない。
ある時は単純に息を覚知し、ある時は付帯的に息の長短を覚知する事、すなわち、このようにして、正念を保つ時間を徐々に伸ばしていくのである。
正念が持続する時間が長ければ長いほど、定力は自然と、益々深くなって行くのである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-7につづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>