<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
定の修習において如何にして更に一歩進んで放下(=手放す)の法則を運用するのか?
【引証】順生(=流れに沿って正しく生きる)の因と縁を具備すれば、定はすなわち自然に生起するーー《増支部・11法集・第2経》
「比丘たちよ。
戒徳あり、戒行を具足する人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私に懊悩がありませんように。』戒徳あり、戒行を具足する人には、当然・自然に、懊悩はありえない。」
「懊悩のない人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私は愉快でありますように。』懊悩のない人は、当然・自然に、愉快である。」
「愉快な人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私に喜悦がありますように。』愉快な人には、当然・自然に、喜悦がある。」
「喜悦の人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私の身体が平静(軽安)でありますように。』喜悦の人は、当然・自然に、身体は平静(軽安)である。」
「身体が平静(軽安)の人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私に楽しさを感じられますように。』身体が平静(軽安)な人は、当然・自然に、楽しさを感じることができる。」
「楽しい人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私の心に定が得られますように。』楽しい人は、当然・自然に、心は定を得ることができる。」
「定のある人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私に如実知見ができますように。』定のある人は、当然・自然に、如実知見することができる。」
「如実知見する人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、(苦から)厭離できますように。』如実知見する人は、当然・自然に、(苦から)厭離することができる。」
「厭離する人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、貪から離れることができますように。』厭離する人は、当然・自然に、貪から離れることができる。」
「貪から離れる人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、解脱智見を体験・証悟できますように。』貪から離れる人は、当然・自然に、解脱智見を体験・証悟することができる。」
「このように、比丘たちよ。
(一つの)法の流れから、(もう一つの別の)法へと流れていき、(一つの)法の円満(+成就)が、(もう一つ別の)法の円満(+成就)へと流れるが、そのことによって、(+人々は)此岸から彼岸へと渡ることができる。」
(2-42につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>