南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-41

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

定の修習において如何にして更に一歩進んで放下(=手放す)の法則を運用するのか?

【引証】順生(=流れに沿って正しく生きる)の因と縁を具備すれば、定はすなわち自然に生起するーー《増支部・11法集・第2経》

「比丘たちよ。

戒徳あり、戒行を具足する人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私に懊悩がありませんように。』戒徳あり、戒行を具足する人には、当然・自然に、懊悩はありえない。」

「懊悩のない人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私は愉快でありますように。』懊悩のない人は、当然・自然に、愉快である。」

「愉快な人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私に喜悦がありますように。』愉快な人には、当然・自然に、喜悦がある。」

「喜悦の人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私の身体が平静(軽安)でありますように。』喜悦の人は、当然・自然に、身体は平静(軽安)である。」

「身体が平静(軽安)の人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私に楽しさを感じられますように。』身体が平静(軽安)な人は、当然・自然に、楽しさを感じることができる。」

「楽しい人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私の心に定が得られますように。』楽しい人は、当然・自然に、心は定を得ることができる。」

「定のある人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、私に如実知見ができますように。』定のある人は、当然・自然に、如実知見することができる。」

「如実知見する人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、(苦から)厭離できますように。』如実知見する人は、当然・自然に、(苦から)厭離することができる。」

「厭離する人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、貪から離れることができますように。』厭離する人は、当然・自然に、貪から離れることができる。」

「貪から離れる人は、以下のような願いを生起させる必要は無い:『願わくば、解脱智見を体験・証悟できますように。』貪から離れる人は、当然・自然に、解脱智見を体験・証悟することができる。」

「このように、比丘たちよ。

(一つの)法の流れから、(もう一つの別の)法へと流れていき、(一つの)法の円満(+成就)が、(もう一つ別の)法の円満(+成就)へと流れるが、そのことによって、(+人々は)此岸から彼岸へと渡ることができる。」

(2-42につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>