「身念処」1-66
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
1-8‐1 善悪と無記
Kusalaの定義は、一種の「善」または「熟練」の状態を言う。
Akusaraは、不善または不熟練。
Abyakata(無記)は、非善非悪:中間的、中立的または中性的(色身、涅槃と異熟心は、無記の具体例)。色身は無記である、というのも、色身は無知で無自覚であるから。
異熟心は無記である。というのも、異熟心は無分別(=物事の区別が出来な事)であるから、非善非悪である。
vipassanaを修して、「心が聞いてる」と観照する時、心は、縁に取りつくという事はなく、または現実の音声を聞いていないが、これが異熟心の一つの例である。
唯作心もまた異熟心である。
唯作心とは、すなわち、無作識で、すなわち、阿羅漢の心である。
涅槃もまた無記である。というのも、涅槃は道心と果心の所縁であり、道心と果心は、すべて出世間法ー非善非悪である。
善法には二種類ある:
a)生死輪廻。
b)生死輪廻を断つ(二度と色身があることがない)。
a)生死輪廻の善法:
戒(戒律を守る事)。
定(サマタ修法)
慧(世間的な智慧)
b)生死輪廻を断つ(二度と色身があることがない)事の善法:
戒(八聖道)
定(八聖道)
慧(八聖道)
戒・定・慧は、我々をして四聖諦を体験・証悟せしめる(1-2節、智階;または1-9節サマタ/vipassana 参照の事)。
(1-67につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>