南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

是誰庵のひとやすみ~怒らない事と偽善

以前、このブログに書いたのですが、私は「怒らない」系の仏教書(人に「怒るな」と諭す本)は読まないです。

あえて読まない。

そんな定番の、道徳のかたまりの本、こちらからは、反論する余地はない(と思われる)。

でも、私には「怒らない」なんて事は出来ないし、<できない自分>を、深く自覚している。

だから、それ(怒らない)をやろうとすると、偽善になる。

人を誘導するような、洗脳するような、先に<結論ありき>の道徳本は、私はあまり好きでは、ないのです。

最近、少し分かった事があります。

人間「怒ってはいけない」のではなくて、「真理を悟った人間は、怒る事が出来ない」という事。

人は、物事を見たり聞いたりした後、ある種の感受と考えが浮かびますが、修行しない人、六根を守らない人は、ここで、己の心が、心の持つ古い習慣、悪い習慣に引きずられる。

人間には<心地よく生きていきたい>という(防衛)本能がありますから、他者の不快な言動や己自身の上に生じる不快感に対して、怒りが出るのは(凡夫ならば)当然なのです。

そこで、己の防衛本能が過剰である場合は、己自身と他者を同時に害している事、防衛本能は、因と縁によって生起していて、因、縁を取り除けば生起しない事を分かった人、すなわち悟った人は、<怒らない>のではなくて、怒りという種類のエネルギーが止息して、生起しないという事なのです。

縁起(因・縁生起)を悟って、それを断じ除く事ができれば、心は平安で、静かでいられる。

<怒らない事>は、修行によって心がよく鍛えられた人、vipassana によって真理(縁起)を如実に観ずる事の出来る人の、心の中に生まれる<結果>なのであって、それを(凡夫が)短絡的に目的化してはならない。

日常生活で凡夫が<怒らない事>を短絡的目的化してしまうと、偽善という名の病気に陥るので、要注意です。(凡夫は怒ってもよい、と言っている訳ではありません。怒ると血圧は上がるし、細胞は燃えるし、いいことありません。凡夫だって怒らない方が好ましいですが、偽善になるな、という事を言いたい)。

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>