南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

FDC資料「37道品ハンドブック」6-3 Ledī Sayādaw著(80/120)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

「精進」の二種類の形態の中で、「自然精進」とは、修行による開発の敬虔を経ないで、機縁に従っていて、怠慢である事があり、かつ布施、持戒聖典の講読などの「自然的善業」の事を指す。

この種の「自然精進」は、怠慢を駆逐する事はできないばかりか、怠慢に屈服する事があり、怠慢に従順である。

これが、懈怠は如何にして自然精進を征服するのか、という説明である。

衆生が仏法に出会うと(+その時初めて)、過去の止まる事を知らない輪廻の中で、己はひたすら「身見」、「悪行」と「苦界」の眷属であった事が知れる。

パーリ聖典は明確に述べている。

「聖種法」は怠慢を駆逐することが出来、全身全霊で修習に取り組み、かつこの種の修習の内において、解脱を得るのだ、と。

怠慢を駆逐する行為は以下のように書かれている:

「諸学」(仏法の訓練)を具備し、かつ戒壇上で受戒して比丘になった者は、「諸学」によって実践する。すなわち:

「樹木の根本を出入りして、そこを住居するが故に、今生において、樹下住支の苦行を実践する」

(《律蔵》・大犍度・第4品)

「諸学」に従って、もし一人の修行者が、森林の中の樹木を住居とし、「乞食にのみ頼って生命を保ち、他人に依存せず、頭陀行という苦行を確固として遵守する・・・」その上で、注意深く、慎重に「身念住」を修習するならば、これらの精進という行為は、怠慢によって生起する悪業を駆逐することができる。

これらはすべて、精進の領域における行為であると言える。

(6-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>