<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
「精進」の二種類の形態の中で、「自然精進」とは、修行による開発の敬虔を経ないで、機縁に従っていて、怠慢である事があり、かつ布施、持戒、聖典の講読などの「自然的善業」の事を指す。
この種の「自然精進」は、怠慢を駆逐する事はできないばかりか、怠慢に屈服する事があり、怠慢に従順である。
これが、懈怠は如何にして自然精進を征服するのか、という説明である。
衆生が仏法に出会うと(+その時初めて)、過去の止まる事を知らない輪廻の中で、己はひたすら「身見」、「悪行」と「苦界」の眷属であった事が知れる。
パーリ聖典は明確に述べている。
「聖種法」は怠慢を駆逐することが出来、全身全霊で修習に取り組み、かつこの種の修習の内において、解脱を得るのだ、と。
怠慢を駆逐する行為は以下のように書かれている:
「諸学」(仏法の訓練)を具備し、かつ戒壇上で受戒して比丘になった者は、「諸学」によって実践する。すなわち:
「樹木の根本を出入りして、そこを住居するが故に、今生において、樹下住支の苦行を実践する」
(《律蔵》・大犍度・第4品)
「諸学」に従って、もし一人の修行者が、森林の中の樹木を住居とし、「乞食にのみ頼って生命を保ち、他人に依存せず、頭陀行という苦行を確固として遵守する・・・」その上で、注意深く、慎重に「身念住」を修習するならば、これらの精進という行為は、怠慢によって生起する悪業を駆逐することができる。
これらはすべて、精進の領域における行為であると言える。
(6-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>