Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

FDC資料「37道品ハンドブック」6-5 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

「念」の反語は「失念」(「妄念」とも)の悪業である。

「失念」とは、「禅定」(たとえば「身念処」)または「直観(=vipassana)」の中に投入する(=心が落ち付いてそこに居続ける)事が出来ず、専心一致が出来ず、己の心霊(=心)を支配することができず、随意にその他の思想、思考の対象に向かって漂い、修行において必要とされる対象の上には、置く事ができない。

「自然念」は俱生によってもたらされるが、しかし、これには、失念を駆逐する能力がない。

唯一「修習念」だけがそれを駆逐することができる。

「禅定」の反語は「散乱」の不善法であり、それは「修習作意」において、心霊は専一である能力がなく、不安で、散乱している事を含む。

諸々の多くの対象に対して、雑念を生じ、心を一処に制する事もなく、心霊をしてコントロール(制御)し、一つの対象に専注せしめる能力もない。

「慧」の反語は「迷いと惑い」の不善法である。

それは、無知、明晰さの欠如、ぼんやりしている事及び心霊の光明に欠けている事が含まれる。

暗黒が心霊に付きまとっている。この種の迷いと惑いは、「自然慧」でもって駆逐する事はできないし、三蔵経典を飽きるほど読んで得た知識「教法智」(pariyatti-paññā)でもって、駆逐することもできない。

唯一、「身念住」(+の修行)における「修習智慧」だけが、この種の「迷いと惑い」を駆逐することができる。

(6-6につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>