南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』18-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

二、四邪道

■1、邪見

邪見には非常に多くの種類がある。

たとえば、因果を信じない(無因見)、断見、常見など等である。

通常、多くの人々は常見を持っている。

常見とは、この生死輪廻の中で、一つの永恒なる霊魂がが、一つの世からもう一つの世に漂泊するのだという考えである。言い換えれば、我々は同一の個人が、この一世から、別の一世に漂っていくのだと考えている。

私は思う。仏教徒を含む非常に多くの人々が、この種の常見を持っているに違いない。

なぜであるか?

それは、我々が、未だ、無我をば徹底的に理解していない為であり、衆生はただ名・色によって構成されたものに過ぎない事を知らない為であり、名・色は不断に生・滅している事を知らない為である。

生命とは、一連の不断に生・滅する所の過程に過ぎないのに、我々はそれの過程において、永恒なる私がいると誤解してしまう。これが常見の発生の因である。

断見とは、人が死ぬと、生命も断滅し、輪廻しないという考えである。

■2、邪思惟

邪思惟とは、正思惟の反対で、邪思惟には三種類ある:

欲楽思惟、

瞋恨思惟、

暴虐思惟。

欲楽思惟は、享楽を捨て去る事ができず、心中は欲楽のことばかり考えるか、または欲楽に向かうか、欲楽を綿々と懐かしむ事を言う。

瞋恨思惟は、心中に、常に他人への恨み心を抱え、瞋恨心を持つことを言う。

暴虐思惟は、心中に常に、どのようにして他人を虐めるかを考えているものを言う。

(18-11につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay(2018年5月25日クムダ・セヤドーより

正式に初心者瞑想指導の許可を得る)