南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》3-13

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

給孤独長者(Anātha piṇḍika)が天子に

仏世の時代、給孤独長者という人がいて、臨終の時、シャーリープトラに頼んで、説法をしてもらった。

彼は己の心が、不断に生・滅、生・滅しているのを観察し、善心が、全身に遍満した。

それは、死心が生起した後、結生するまで続き、久しからずして、彼は、トウリ天に生まれて、天子になった。

彼は、自分がどこから来たのかを、思惟した。

そして、自分は人間界から来た事、大いなる護法者であった事を思い出し、非常に嬉しく思った。

彼は、天宮に入る前に、もう一度、人間界に戻って来た。

Idaṃ hi taṃ cetavanaṃ Isisaṃghanisevitaṃ

Āvuttaṃ dhammar āhenap īti sañjananaṃ mama (原文ママ)

己が供養した祇園精舎に、仏陀が住まわれているのを見て、非常に喜悦を感じた。

彼は、臨終の前に、生・滅を観ていたのであるが、シャーリプトラの説法を聞いていた間も、生・滅を観じていたのである。

善心所と善速行は、彼の心識流の中に存在しており、故に、臨終の時の善心は、非常に顕著であった。

無間縁が彼を支え、死心の後、即刻、トウリ天に結生したのである。

トウリ天にいる間、このエネルギーは、消失することはない。

この例に鑑みて、私は、己の身体と生命を軽んじることを恐れるようになった。

というのも、私は、非常にはっきりと、業力は消失しない事を知っている事、唯一、業だけが、己自身の資具(kammasakā)である事を知っているが故に。

あなたが、どれほどの富を持っていようとも、一たび死心が来れば、それらは皆、放棄しなければならず、毛筋一本も、持っていく事は出来ない。

もし、それらを放棄する事ができないのであれば、鬼道(=幽霊道)に結生し、生前に己が所有していた物品を守り、そこに纏わり付き、別の場所に往生する事を拒む。

通常、人は死ぬ時、神智が朦朧となり、朦朧とした心は、必ず、境と共に歩むようになる。これらの境とは、金、銀、珠宝、家、子女、親戚、友人などなどである。

平時の時に、どのような境を気に掛けているか、臨終の時には、その境が顕現する。

もし、心が境と共に歩んだ場合、彼の次の一生の結生の優先順序は、必ずや鬼道または悪鬼道の衆生であるに、違いない。

法師として存在している我々であっても、例外ではない。

たとえば、どこかの大徳が非常に吝嗇で、何等の布施もした事がないのであれば、彼は死後、そこから(=鬼道)超越する事はできないのである。

究極的な法性ーー常法(paramattha)とは、僧俗と畜生を分けることはない。

一般的な人々は、放棄できない、手放せない何らかの気がかりがあり、それは、地獄に落ちて苦を受けるまでにはいかないけれども、しかし、鬼になって、地獄の看守になるかも知れないのは、大法師であっても、例外ではないのである。

もし、放棄できない、手放せない気がかりがあるのであれば、地獄に落ちないにしても、しかし、鬼道の衆生には、なるのである。

故に、私は皆様に、業力が心識に付き従う状況をよく理解するよう、再三再四、強調するものである。

(3-14につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>