<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
給孤独長者(Anātha piṇḍika)が天子に
仏世の時代、給孤独長者という人がいて、臨終の時、シャーリープトラに頼んで、説法をしてもらった。
彼は己の心が、不断に生・滅、生・滅しているのを観察し、善心が、全身に遍満した。
それは、死心が生起した後、結生するまで続き、久しからずして、彼は、トウリ天に生まれて、天子になった。
彼は、自分がどこから来たのかを、思惟した。
そして、自分は人間界から来た事、大いなる護法者であった事を思い出し、非常に嬉しく思った。
彼は、天宮に入る前に、もう一度、人間界に戻って来た。
Idaṃ hi taṃ cetavanaṃ Isisaṃghanisevitaṃ
Āvuttaṃ dhammar āhenap īti sañjananaṃ mama (原文ママ)
己が供養した祇園精舎に、仏陀が住まわれているのを見て、非常に喜悦を感じた。
彼は、臨終の前に、生・滅を観ていたのであるが、シャーリプトラの説法を聞いていた間も、生・滅を観じていたのである。
善心所と善速行は、彼の心識流の中に存在しており、故に、臨終の時の善心は、非常に顕著であった。
無間縁が彼を支え、死心の後、即刻、トウリ天に結生したのである。
トウリ天にいる間、このエネルギーは、消失することはない。
この例に鑑みて、私は、己の身体と生命を軽んじることを恐れるようになった。
というのも、私は、非常にはっきりと、業力は消失しない事を知っている事、唯一、業だけが、己自身の資具(kammasakā)である事を知っているが故に。
あなたが、どれほどの富を持っていようとも、一たび死心が来れば、それらは皆、放棄しなければならず、毛筋一本も、持っていく事は出来ない。
もし、それらを放棄する事ができないのであれば、鬼道(=幽霊道)に結生し、生前に己が所有していた物品を守り、そこに纏わり付き、別の場所に往生する事を拒む。
通常、人は死ぬ時、神智が朦朧となり、朦朧とした心は、必ず、境と共に歩むようになる。これらの境とは、金、銀、珠宝、家、子女、親戚、友人などなどである。
平時の時に、どのような境を気に掛けているか、臨終の時には、その境が顕現する。
もし、心が境と共に歩んだ場合、彼の次の一生の結生の優先順序は、必ずや鬼道または悪鬼道の衆生であるに、違いない。
法師として存在している我々であっても、例外ではない。
たとえば、どこかの大徳が非常に吝嗇で、何等の布施もした事がないのであれば、彼は死後、そこから(=鬼道)超越する事はできないのである。
究極的な法性ーー常法(paramattha)とは、僧俗と畜生を分けることはない。
一般的な人々は、放棄できない、手放せない何らかの気がかりがあり、それは、地獄に落ちて苦を受けるまでにはいかないけれども、しかし、鬼になって、地獄の看守になるかも知れないのは、大法師であっても、例外ではないのである。
もし、放棄できない、手放せない気がかりがあるのであれば、地獄に落ちないにしても、しかし、鬼道の衆生には、なるのである。
故に、私は皆様に、業力が心識に付き従う状況をよく理解するよう、再三再四、強調するものである。
(3-14につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>