南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-11★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

この時、私の心中に、予期せぬ失望が、沸き起こった。

私は思った:

”私はどうして、この法を他人に教え、指導する事ができるのか?

指導したとて、一体、どのような意義・意味があるのか?

真正なる法は、このようであるのであるから、それをどのように説明すれば、人々に分かって貰えるのだろうか?

(+余生をこのまま)過ごして、死んでいった方が良いのではないか?”

ほら!見えましたか?

私は喪失感を感じ、法を弘めようとする気力は無くなった。

これはちょうど、逃げ道を見つけたものの、己一人が逃げ切ればよいのだと考えるようなものだ。

私は、他人を指導したとて、何等の利益をも、齎すとも思えなかった。

これは、私が教え始めたばかりの時に、感じたものであった。

ただし、事はいまだ完結してはいない。

私のこの件に関する思慮は、自然発生的に発生して、かつ発展している。

世間の状況を観察すると、私は気持ちが萎える。

私は衆生が、つける薬のないままに、暗黒の中に生存しているのを見るし、彼らは愚かで、かつ無知でもあって、何等の価値もない。

仏陀は、この種の人間を”文句為最者”(paraparama)と呼んだ。

それより根器が少し良いものは、私の見たのでは、”須引導者”(neyya)と、”広演知者”(vipabcitaññu)である。

”須引導者”という、この種の人間は、法の教えを受け入れることができる。

彼らは時に進歩し、時に退歩する。

須引導者は、教えを理解する能力があり、また、実践する力ももっているが、しかし、ひとたび散漫になると、大いに退歩、堕落する。

もし、彼らが誠心誠意、修行するならば、彼らは非常に早く、進歩する事が出来る。これらは、彼らの発心の程度によるが、須引導者には、この様な、二種類の可能性が存在している。

広演知者は、不断に目標に向かって前進する。

彼らは堕落しない。

しかし、彼らの進歩は、略聞即知者(ugghaāitaññu)より遅い。

略聞即知者の直観の智慧は、それほどに鋭く、常に、決定的な突破を得られる準備をしており、彼らは、柵の前にいる牛が、柵の扉が開くやいなや、即刻、飛び出していくようなものである。

略聞即知者の、内観における智慧の能力は、一瞬にして迅速に理解して、超越する。

すべての衆生は、必然的に、この四種類の根器の一つに属する。

私が、これらの世間的本質を観察した所によると、彼らは彼ら自身の、各々の根器に基づいて、自然に、この四種類に分類される。

私が見る所、上等な根器の者は、私が教えたくないと思っている広大な衆生の中に、いる。

略聞即知者:彼らはすでに十分に、なるべく早く(+己を)度したいと思っていて、準備を完了している。

次に、広演知者であるが、彼らは非常に快速に目標に向かうことができる。

次に須引導者であるが、彼らは横になって放逸したいという思いと、修行に精進したいという思いの間で、抗っている。

あなた方は、私の論点を理解しましたか?

二つの異なった力が、彼らの心の中において、相互に争って、統治権を奪い合っている。

最後に、文句為最者であるが、この種の衆生は、外観が、人類であるに過ぎない。

彼らは、まったくもって、将来の為に、何らかの善行を蓄積する事もない。

この種の人間の死は、尊厳のない死であり、唯一の可能性は、下に向かって堕ちるだけである。

彼らは一生また一生と、一生毎に、更に堕落する。

上昇するための道は、すでに塞がれていて、彼らは如何なる福徳資糧も修したり、集めたりしていないため、下に向かって堕ちるより外ない。

この事を、よく覚えておくように!

これは私の心の内から直接流出する教えであり、あなた方は、私の事を、嘘つきだとか、法螺吹きだとか思って(+はいけない)。

(2-12につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>