『阿羅漢向・阿羅漢果』2-11★
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
この時、私の心中に、予期せぬ失望が、沸き起こった。
私は思った:
”私はどうして、この法を他人に教え、指導する事ができるのか?
指導したとて、一体、どのような意義・意味があるのか?
真正なる法は、このようであるのであるから、それをどのように説明すれば、人々に分かって貰えるのだろうか?
(+余生をこのまま)過ごして、死んでいった方が良いのではないか?”
ほら!見えましたか?
私は喪失感を感じ、法を弘めようとする気力は無くなった。
これはちょうど、逃げ道を見つけたものの、己一人が逃げ切ればよいのだと考えるようなものだ。
私は、他人を指導したとて、何等の利益をも、齎すとも思えなかった。
これは、私が教え始めたばかりの時に、感じたものであった。
ただし、事はいまだ完結してはいない。
私のこの件に関する思慮は、自然発生的に発生して、かつ発展している。
世間の状況を観察すると、私は気持ちが萎える。
私は衆生が、つける薬のないままに、暗黒の中に生存しているのを見るし、彼らは愚かで、かつ無知でもあって、何等の価値もない。
仏陀は、この種の人間を”文句為最者”(paraparama)と呼んだ。
それより根器が少し良いものは、私の見たのでは、”須引導者”(neyya)と、”広演知者”(vipabcitaññu)である。
”須引導者”という、この種の人間は、法の教えを受け入れることができる。
彼らは時に進歩し、時に退歩する。
須引導者は、教えを理解する能力があり、また、実践する力ももっているが、しかし、ひとたび散漫になると、大いに退歩、堕落する。
もし、彼らが誠心誠意、修行するならば、彼らは非常に早く、進歩する事が出来る。これらは、彼らの発心の程度によるが、須引導者には、この様な、二種類の可能性が存在している。
広演知者は、不断に目標に向かって前進する。
彼らは堕落しない。
しかし、彼らの進歩は、略聞即知者(ugghaāitaññu)より遅い。
略聞即知者の直観の智慧は、それほどに鋭く、常に、決定的な突破を得られる準備をしており、彼らは、柵の前にいる牛が、柵の扉が開くやいなや、即刻、飛び出していくようなものである。
略聞即知者の、内観における智慧の能力は、一瞬にして迅速に理解して、超越する。
すべての衆生は、必然的に、この四種類の根器の一つに属する。
私が、これらの世間的本質を観察した所によると、彼らは彼ら自身の、各々の根器に基づいて、自然に、この四種類に分類される。
私が見る所、上等な根器の者は、私が教えたくないと思っている広大な衆生の中に、いる。
略聞即知者:彼らはすでに十分に、なるべく早く(+己を)度したいと思っていて、準備を完了している。
次に、広演知者であるが、彼らは非常に快速に目標に向かうことができる。
次に須引導者であるが、彼らは横になって放逸したいという思いと、修行に精進したいという思いの間で、抗っている。
あなた方は、私の論点を理解しましたか?
二つの異なった力が、彼らの心の中において、相互に争って、統治権を奪い合っている。
最後に、文句為最者であるが、この種の衆生は、外観が、人類であるに過ぎない。
彼らは、まったくもって、将来の為に、何らかの善行を蓄積する事もない。
この種の人間の死は、尊厳のない死であり、唯一の可能性は、下に向かって堕ちるだけである。
彼らは一生また一生と、一生毎に、更に堕落する。
上昇するための道は、すでに塞がれていて、彼らは如何なる福徳資糧も修したり、集めたりしていないため、下に向かって堕ちるより外ない。
この事を、よく覚えておくように!
これは私の心の内から直接流出する教えであり、あなた方は、私の事を、嘘つきだとか、法螺吹きだとか思って(+はいけない)。
(2-12につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>