<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
ここにおいて、我(atta)は、ただ、形状を具する概念にすぎないのであるのに、却って真と信じられ、一種の実体であるとされている;
また、生命の一種の、五蘊和合の概念にしか過ぎないが、これも却って真と信じられて、一種の実体であるとされている。
この二種類の顛倒妄想の内、前者は、二種類の諦ーーすなわち、真諦と世俗諦によって、取り除くことができる。
ただし、後者は、無常遍知(anicca-pariññā)が頂点に達した時にのみ、断じ除くことができる。
ここにおいて、相続(santati)は同じ種類の蘊の相続不断を言う;
nana-santatiは、異なる種類の蘊の相続不断を言う。
相続には、色相続、心相続の二種類がある。
色蘊の相続はまた、四種類に分類することができる。すなわち:
業力、心、温度、食物によって生じる相続。
もし、それぞれの因が変化したならば、この四種類の相続の内の、それぞれもまた、変化する。
変化が生じた時、業力によって生じた相続の変化は、あまり明確ではなく、心によって生じた相続の変化は、非常に明確である。
着席する事を例にとると、着席するという事は、単純な動作であるが、しかし、我々は身体の異なる部分が移動している事に気が付く。
これらの移動と行為は、色蘊の相続の変化に過ぎない。
一つひとつの蘊は、三つの時期に分けることができる。すなわち:
生(birth)、成長と衰退、及び死滅である。
まさに道を歩いているその一歩一歩は、始まりがあり、中間と終了がある。
これらのそれぞれは、生、住、異、滅(注1)である。
我々は「一歩(+歩む)」と言うけれども、これは身体全体を含んでおり、言い換えれば、身体全体の変化の過程でもあるのである;
全身の蘊は、新しい生を体験し、新しく発展して、衰退し、そして死滅する。
もし、散歩するとして、百歩または千歩歩いたならば、この時、百歩または千歩が新しく生まれた(new birth)のであり、かつ、新しい発展と衰退があり、最後には、身体内部に新しい死(new deaths)が発生するのである。
(注1)「生滅」は、一切の名法と色法の共相である。
生(jāti)、住(sthiti)、異(jarā 老)、滅(anityatā)は、「有為(法)四相」と呼ばれるが、しかし、一刹那の中において観察される名法、色法は、生、住、滅の三相しか備わっていない。
(20-7につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《Vipassanāハンドブック》(原題 Vipassanā Dipanī)
Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>