<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
たとえば、道路を歩いている瞬間、我々は、足でもって、単純に歩んでいるのではあるが、しかし、その間には、多くの肢体の変化があり、これらの変化は、無常性または止滅(ママ)と呼ぶ事ができる。
その他の活動もまた、同様である。
今、我々は、これらの理論を、己自身の上において、応用しなければならない。
心法と色法の無常性と死滅(ママ)は、我々の身体内部において、我々の頭の内部から、身体の各部位において、発見する事ができる。
もし我々が、我々の身体の無常性と、死滅(ママ)の作用をば、明確に観察する事ができるならば、我々は「壊随観智」--すなわち、毎秒のうちに、また毎秒の一断片ずつにおいて、身体の異なる部位における壊滅、衰退、止息と変化を観察するならば、上記の観智を、獲得することができる。
言い換えれば、我々は各部位の改変・変化、大きいものも小さいものも含む所の部位、頭、足、手など等を、観察するのである。
もし、この様に観察する事ができたならば、我々は、以下の様に言うことができる:
「身念処を所縁境とする無常観は、修習された」
もし、身念処を所縁境とする無常観の修習が、上手く行ったなら、「無我観」の修習も、完成させることができる。
もし、斯くの如くに観察する事ができたならば、我々は以下の様に、言うことができる:
「無常観の修習は完成した」
「完成」の意味は:
無常観はすでに、正しく修習され、終生、引き続き継続して修習するだけでなく、かつ、修行者は、この種の無常随観智を擁しているのだ、と言える。
ただし、この事によって、この修行者が、すでに道智と果智を獲得したのだ、と言える訳ではない。
そして、道智と果智の獲得、その早さ、可能性は、更に高度なレベルの美徳を、修習する機会があったかどうかに、かかっている。
すでに道智と果智を、証得し得たかどうかを知るのは、非常に困難である。
実際、すでに初果を証得した聖者であっても、己自身がすでに「預流道」を証得したのを、知らないでいる場合がある。
なぜか?
というのも、煩悩の潜伏期間は、測ることができないが故に。
「煩悩の潜伏期間は、測ることが出来ない」という事を知らない禅修行者は、彼らがすでに「預流道」を獲得した(+と思いこんでいる場合もあるが)、しかし今日まで、彼らの邪見と疑は、部分的に除去されただけであって、完全には断じ除かれてはいない(+場合がある)。
もし、潜伏状態にあった邪見と疑が、すでに、正断捨断(samucchedapahāna)によって、根こそぎ断じられたならば、彼らはすでに、真正なる「預流道」の聖者である、と言える。
禅修行者は、その一生において、必ず、円満な境地に至るまでの間、「無常観」の修習に、喜びを見出さねばならない。
たとえ阿羅漢であっても、心の安寧と静けさを獲得する為には、修習を放棄してはならない。
もし、禅の修行者が一生、不断に修習するならば、彼らの観智は増長し、彼らは凡夫地を超越して、聖地(ariya-bhūmi)に到達するであろう。
死ぬまでに、でなければ、臨終の時に;
もし、この生でなければ、来世において;
もし、来世でなければ、彼らは天人に往生するであろう。
(翻訳終了)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)