南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

《Vipassanāハンドブック》23-5(F)★(翻訳終了)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

たとえば、道路を歩いている瞬間、我々は、足でもって、単純に歩んでいるのではあるが、しかし、その間には、多くの肢体の変化があり、これらの変化は、無常性または止滅(ママ)と呼ぶ事ができる。

その他の活動もまた、同様である。

今、我々は、これらの理論を、己自身の上において、応用しなければならない。

心法と色法の無常性と死滅(ママ)は、我々の身体内部において、我々の頭の内部から、身体の各部位において、発見する事ができる。

もし我々が、我々の身体の無常性と、死滅(ママ)の作用をば、明確に観察する事ができるならば、我々は「壊随観智」--すなわち、毎秒のうちに、また毎秒の一断片ずつにおいて、身体の異なる部位における壊滅、衰退、止息と変化を観察するならば、上記の観智を、獲得することができる。

言い換えれば、我々は各部位の改変・変化、大きいものも小さいものも含む所の部位、頭、足、手など等を、観察するのである。

もし、この様に観察する事ができたならば、我々は、以下の様に言うことができる:

「身念処を所縁境とする無常観は、修習された」

もし、身念処を所縁境とする無常観の修習が、上手く行ったなら、「無我観」の修習も、完成させることができる。

もし、斯くの如くに観察する事ができたならば、我々は以下の様に、言うことができる:

「無常観の修習は完成した」

「完成」の意味は:

無常観はすでに、正しく修習され、終生、引き続き継続して修習するだけでなく、かつ、修行者は、この種の無常随観智を擁しているのだ、と言える。

ただし、この事によって、この修行者が、すでに道智と果智を獲得したのだ、と言える訳ではない。

そして、道智と果智の獲得、その早さ、可能性は、更に高度なレベルの美徳を、修習する機会があったかどうかに、かかっている。

すでに道智と果智を、証得し得たかどうかを知るのは、非常に困難である。

実際、すでに初果を証得した聖者であっても、己自身がすでに「預流道」を証得したのを、知らないでいる場合がある。

なぜか?

というのも、煩悩の潜伏期間は、測ることができないが故に。

「煩悩の潜伏期間は、測ることが出来ない」という事を知らない禅修行者は、彼らがすでに「預流道」を獲得した(+と思いこんでいる場合もあるが)、しかし今日まで、彼らの邪見と疑は、部分的に除去されただけであって、完全には断じ除かれてはいない(+場合がある)。

もし、潜伏状態にあった邪見と疑が、すでに、正断捨断(samucchedapahāna)によって、根こそぎ断じられたならば、彼らはすでに、真正なる「預流道」の聖者である、と言える。

禅修行者は、その一生において、必ず、円満な境地に至るまでの間、「無常観」の修習に、喜びを見出さねばならない。

たとえ阿羅漢であっても、心の安寧と静けさを獲得する為には、修習を放棄してはならない。

もし、禅の修行者が一生、不断に修習するならば、彼らの観智は増長し、彼らは凡夫地を超越して、聖地(ariya-bhūmi)に到達するであろう。

死ぬまでに、でなければ、臨終の時に;

もし、この生でなければ、来世において;

もし、来世でなければ、彼らは天人に往生するであろう。

(翻訳終了)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>