Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『禅修指南』(3-24)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

(15/520)

定と慧がバランスする時初めて、世間禅(注7)

(lokiya-jhāna)は生起することができる。

仏陀は定と慧は、並行して修習するべきであると指導している。

というのも、出世間禅(注8)(lokuttara-jhāna)もまた、唯一、定と慧がバランスした時にのみ生起するのであるが故に。

信と慧とのバランス、定と精進とのバランス、定と慧とのバランスは、共に念根を必要とする。

念根はどの様な状況においても適合するものである。というのも、念は心が信、精進、慧が過剰に強すぎることによって、掉挙に落ち込んだり、定が強すぎることによって、怠惰に落ち込むのを、防ぐことができるが故に。

こうしたことから、念は一切の状況に適合する事ができる。ちょうど調味料としての塩が一切の調味に適合するのと同じ様に、また宰相が国王の一切の政務を取り仕切るのに相応しいのと同じ様に。

故に、疏鈔は以下の様に解説する:

「世尊は言う『念はいかなる業処においても必要とされる』」

なぜであるか?

というのも、念は心を保護することができ、心を策励し、心をして、いまだ到達したことのない境に、趣かせる事ができる。

正念のない時、どの様な特別な境地をも、証得することはできないのである。

正念は心を保護することができ、また、心が目標(所縁)から離れない様にする事ができる。

これが、なぜ、禅修行者が、観智でもって念を認識する時、彼は念が、次の状況を呈するのを見る事ができるのかという理由である:

それは、修行している最中において、専注する所の目標を保護し、また禅修行者の心をも保護する。

正念が欠ける時、彼は、心の策励と心の抑制ができない。

これが、なぜ仏陀が、念は一切の処に適合すると述べたのか、という回答である。

(《清浄道論》第四章参照)

(注7)世間禅:四色界禅と四無色界禅。

(注8)出世間禅:聖道と聖果におけるジャーナ定。

(3-25につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay