本日、ITのニュースを読んでおりましたら、
保阪正康『自壊する日本型エリート』
という一文に、出会いました。
それは・・・
【明治時代の日本軍は<皇軍>といい、天皇に忠誠を誓っていた。その天皇とは、当時、実際に生きて身・心を持つ所の、明治天皇その人であった。
昭和になると、日本軍は、自らを<神軍>と名のり、神武天皇という、一度も実在した事のない神、抽象化された概念に、忠誠を誓う様になった。
そうなれば、軍部で発生する誤り、誤謬は、誰も責任を取らない。
抽象化された神は、軍部を批判する事がない、が故に。
そしてタガの外れた日本軍と、現代の日本のエリートは、同じ型、性質を保持している・・・云々】
この記事を読んで、私の脳内には、
《自壊する日本型仏教》
という言葉が生まれました。
ゴータマ仏陀の金口(パーリ三蔵、アビダンマ仏教)を忘れ・・・もちろん、2600年もたてば、アビダンマ仏教がまったくもって、1%たりとも変質していない、とは言えないけれども、変質の幅、程度は、大乗より少ない・・・、何々如来という抽象化された対象に帰依し、修行しなくても、死ねば誰でもが阿弥陀様の蓮の台・・・
仏教的実践を間違えても、守るべき基準、戒と律を制定したゴータマ仏陀は眼中になく・・・
僧侶が結婚しようが、墓を売ろうが、戒名を売ろうが、誰に批判されることもない。
日本軍を、<日本の仏教界>と入れ替えれば、納得、納得。
仏教徒は、その帰依の対象を、後発の、抽象化された大乗の如来に置くのではなく、2600年前に、インドの地に、生き生きと生きて、生活の中において、悟りの自説を展開し弘法伝道したゴータマ仏陀その人に置き、その声に耳を傾けるべきだと、私は思います。
(ただ、ゴータマ仏陀に帰依すると言えども盲従、盲信してはならず、パーリ三蔵を読み、研究し、自分の頭で考え、試行錯誤しながら、実践と修行を積み上げていくべき。<ゴータマ仏陀の威を借る狐>になってはならない)
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>