上記に含まれる意味とは、すなわち、禅修行者は、異なる段階の観智を通り、かつ縁起を了知しないのであれば、輪廻を解脱する事はできない、という事である。
「比庫たちよ。
何が苦集聖諦(dukkhasamudayaṃariyasaccaṃ)であるか?
[1]無明(avijjā)の縁によりて、行(saṅkhāra)(があり)
[2]行(saṅkhāra)の縁によりて識(viññāṇa)、
[3]識の縁によりて名色(ñāmarūpa)、
[4]名色の縁によりて六処(saḷāyatana)、
[5]六処の縁によりて触(phasso)、
[6]触の縁によりて受(vedanā)、
[7]受の縁によりて愛(taṇhā)、
[8]愛の縁によりて取(upādāna)、
[9]取の縁によりて有(bhavo)、
[10]有の縁によりて生(jāti)、
[11]生の縁によりて
[12]老、死(jarāmaraṇa)、愁(soka)、悲(parideva)、苦(dukkha)、憂(domanassa)、悩(upāyāsa)が生起する。
この様に、苦蘊の全体が生起する。
比庫たちよ、これを苦集聖諦と言う。」(A . 3.62)
上記の項目は、縁起と呼ぶ。
仏陀は、縁起はすなわち、苦集聖諦である、という。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>