Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#32-1

<#32-1>シリーズは、中国語原文P141~P175までの、脚注の翻訳です。

<注141>=八定:四種類の色界ジャーナと、四種類の無色ジャーナ。

<注142>=この点に関しては、問4-6、P242参照の事。

<注143>=禅相と想に関する具体的な関連性は、p73を参照の事。

<注144>=《清浄之道・40業処の解釈》(Cattālīsakammmaṭṭhānavaṇṇanā)(Vm.47)

<注145>=詳細は「表1d:死亡と結生」、p300参照の事。

<注146>=関連する内容に関しては、「表1d:死亡と結生」、p300参照の事。

<注147>=Muṭṭhassatiの元の意味は「失念」である。義註は、ここにおける「失念」はこの人が仏語を憶念するのを忘れた、という事を指しているのではなく、凡夫(puthujjana)の身分で死亡した時、凡夫は失念の死者と呼ばれる事を言う、と説明する。

 <注148>=この段の経文を直訳すると、以下の様になる:

「彼は失念して、諸々の天部の類の一に生まれ変わった。彼は、そこにおいて、諸々の法句を、明確に顕現できる。比庫たちよ、念の生起がゆっくりであろうとも、しかし、当該の有情は、非常に早く殊勝(なレベルに)に到達することができる。」

<注149>=パーリ語、gandhabba:天界の歌舞音楽の神。東方持国天王によって統治されている。

<注150>=第四禅が、無明を取り除く事は、出来ない。ただ、無明を鎮伏するだけである。問答7-7、7-8、7-9参照の事。

<注151>=有分(bhavaṅga):有分心は、フロイト心理学で言う所の、潜在意識または無意識とは異なる;二個の心識は、同時に生起することはできない。有分心は、果報心相続流であり、前の一世の臨終の時に熟した所の、業がこれを維持している。それは、二個の心路の間の名法が相続して不断である様にすると同時に、意門(manodvāra)を生起せしめる作用をも擁する。一たび、この期の生命を生じせしめる業が消費尽くされた時、今生の有分心は、終結を告げる。

阿羅漢の場合を除いて、新しい所縁を取る、新しい有分心が、新しく生まれた命の、一つ目の心識の後に生起する。

すなわち、結生心の後に、16個の有分心が生起する。新しい一期の生命を生じせしめる所の、有分心の業は、結生心を生じせしめる業と同じであり、同じ所縁を取る(「表1b:死亡と結生」p300参照の事。)故に、有分心は、六門心路の元に運用される「潜在意識」とは異なるものである。

例えば、p271の「表1c:五門心路」では、五門心路が生じる前、有分流は中断される、と示している。

一たび心路が終結すると、それはまた再び新たに生起する(「表1b:意門心路」p265参照の事)。

有分心は、常に同一の目標を認め、それは、(心が)六門の目標に向かう現象とは、無関係であり、故に、「離心路」(vīthimutta)と呼ばれる。詳細は、p258の説明を参照の事。

 

<注152>=三界:

1)欲界(kāmāvacara)、人界、動物、鬼(幽霊)、阿修羅、地獄と天界を含む。

2)色界(rūpāvacara)、梵天界を含む。この界の色法は非常に微細である。

3)無色界(arūpāvacara)、この界は、名法のみ存在する。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>