Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#35-18

次に、我々は観禅における刹那定について、説明する。

この事は《清浄之道・入出息》の一節において、解説されている<注234>。

ここにおいて、あなたは、観刹那定とは、究極名色法及び、その因の無常・苦・無我の本質を、徹底的に照見するものである、という事を、明確に理解しなければならない。

究極名色法及びその因を見る事ができない者が、どうして、観刹那定を擁することが出来様か?

不可能である!

止乗者が、観の修行をしたいと思う時、彼は、先に初禅に入る、例えば入出息初禅であるが、これは止に属する。

出定後、彼は、初禅の34個の名法を識別し、かつ、これらのジャーナ法(jhāna dhamma)の生・滅の本質を無常・苦・無我として、観照しなければならない。

これは、第二禅等などにおいても同様である。

識別の時、定力は依然として存在する。

彼は、ジャーナ法の無常・苦・無我の本質に専注するが、その問い、彼の定力は非常に深く、厚く、かつ、強力であり、その他の所縁に転移することがない。

これは刹那定である、というのも、所縁が刹那に生・滅する、生じるや否や、即刻、滅し去るものであるが故に。

同様に、禅修行者が、究極名色法及びその因の無常・苦・無我の本質を照見することを通して、観の修習をする時、彼の心は、通常、所縁から偏離することはなく、彼の心は、三相の内の一に沈入しつづける。

これもまた刹那定と呼ぶ。

もし、禅修行者が、いかなる止禅の修習をも経ないで、究極名色法及びその因を徹底的に、明確に、見ることができるならば、勿論、彼は、止禅を修習する必要がない。

しかし、それが可能でないならば、彼は、究極名色法とその因を見ることができる様になるため、一種類の止業処を選んで(修行して)、充分な定力を育成しなければならない。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>