Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#Knowing and Seeing#35-20

もし、禅修行者がただ感受をのみ観照したいと思うならば、彼は、仏陀が述べた以下の事実に注意を払わねばならない:

”Sabbaṃ bhikkhave、

anabhijānaṃ aparijānaṃ 

avirājayṃ appajahaṃ 

abhabbo dukkhakkhayāya.

Sabbañca kho、

bhikkhave、abhijānaṃ parijānaṃ

virājayaṃ pajahaṃ bhabbo dukkakkhayāya.”

「比庫たちよ。

一切(全ての事柄)に対して、

不証知(sabbaṃ anabhhijānaṃ)であり、

不遍知(aparijānaṃ)であり、

不離棄(avirājayaṃ)であり、

不捨断(appajahaṃ)である者は、

苦を尽くす事はできない。

比庫たちよ。

一切(全ての事柄)に対して、証知し、遍知し、離棄し、捨断する者だけが、苦を尽くす(bhabbo dukkhakkhayāya)ことができる。」

上に述べた経文は、《相応部・六処品》の《不遍知経》

<注246>からの引用である。

「一切(すべての事柄)」とは何であるか?

それはすなわち、一切の名色法及びその因の事である。

<注247>。

三種類の遍知(pariññā)でもって、一切を了知した者でない限り、涅槃を証悟することはできない。唯一、三種類の遍知でもって、一切を了知した者だけが、涅槃を証悟することができる。

同様に、仏陀は《諦品・尖頂閣経》の中において、もし、観智と道智でもって、四聖諦を了知する事が出来ないのであれば、輪廻(saṃsāra)を終結させることは、できない、と言う。<注248>

故に、もし、禅修行者が、涅槃を証悟したいと願うならば、彼は、必ず、三種類の遍知でもって、一切の名法、色法とその因を了知しなければならないのである。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>