もし、禅修行者がただ感受をのみ観照したいと思うならば、彼は、仏陀が述べた以下の事実に注意を払わねばならない:
”Sabbaṃ bhikkhave、
anabhijānaṃ aparijānaṃ
avirājayṃ appajahaṃ
abhabbo dukkhakkhayāya.
Sabbañca kho、
bhikkhave、abhijānaṃ parijānaṃ
virājayaṃ pajahaṃ bhabbo dukkakkhayāya.”
「比庫たちよ。
一切(全ての事柄)に対して、
不証知(sabbaṃ anabhhijānaṃ)であり、
不遍知(aparijānaṃ)であり、
不離棄(avirājayaṃ)であり、
不捨断(appajahaṃ)である者は、
苦を尽くす事はできない。
比庫たちよ。
一切(全ての事柄)に対して、証知し、遍知し、離棄し、捨断する者だけが、苦を尽くす(bhabbo dukkhakkhayāya)ことができる。」
上に述べた経文は、《相応部・六処品》の《不遍知経》
<注246>からの引用である。
「一切(すべての事柄)」とは何であるか?
それはすなわち、一切の名色法及びその因の事である。
<注247>。
三種類の遍知(pariññā)でもって、一切を了知した者でない限り、涅槃を証悟することはできない。唯一、三種類の遍知でもって、一切を了知した者だけが、涅槃を証悟することができる。
同様に、仏陀は《諦品・尖頂閣経》の中において、もし、観智と道智でもって、四聖諦を了知する事が出来ないのであれば、輪廻(saṃsāra)を終結させることは、できない、と言う。<注248>
故に、もし、禅修行者が、涅槃を証悟したいと願うならば、彼は、必ず、三種類の遍知でもって、一切の名法、色法とその因を了知しなければならないのである。