私の次男は、現在、四国の、とある山奥の田舎の村で仕事をしています。
本業はカメラマンですが、その村の、広報の様な仕事をしていて、でも、観光案内の為の写真やキャプションを書くのではなくて、その村に生きてきた人々の息遣いを書きたい、地道に生きて来た人々の記録を残したい、と言っています。
前書きが長くなりましたが、その四国の田舎で、ダム建設に使う岩石を切りだした為に、荒廃してしまった山があります。
それを見た谷種子さんが、24年の歳月をかけて、そこに桜を始めるとする広葉樹を植え続け、今では立派な森になっているそうです。
その種子さんの口癖は、
「山に木を植えるのは楽しい、楽しくなければ続かない」
私も、20数年間、主にテーラワーダ(原始仏教)の仏教書を日本語に訳して、WEBにUPし続けてきましたが、本当に
「仏教書の翻訳は楽しい、楽しくなければ続かない」と、
つくづく思います。
本日翻訳しました所の、『親知実見』<#39-1~39-6>
仏教徒は何を目指すのか、何を目指すべきなのか、という事が分かる様に、お話されるパオ・セヤドーの法話に、
「ああ、仏教書の翻訳って楽しいな」
「楽しすぎて、罰が当たりそう」
な~~んて、思いました。
人生、何が幸せかといいますと、己の天職に出会う事。
私の天職ーー仏教書の翻訳は、地位も名誉も、収入とも関係がありませんが、天職に出会い、天職に殉じることのできる私は、幸せ者だな、と思うこのごろです。