仏陀は更に一歩進んで説明する:
「比庫たちよ。
この六支の具足する布施の功徳は、衡量する事が容易ではない:
『これほど多くの福徳果、善果があり、楽しさを齎し、天に生まれ、楽の報いあり、天界に導かれ、愛され、楽、意のままであり、幸福で利あり、楽しい。』
その大きな功徳は、無数、無量によってのみ、計算され得る。
比庫たちよ。
大海の水が計量しがたいのと同じ様に:
『これほど多くの桶の水がある、
これほど多くの幾百の桶の水がある、
これほど多くの幾千の桶の水がある、
または、これほど多くの、10万桶の水がある。』
その大水の集まりは、無数、無量によってしか計算できない。
同様に、比庫たちよ。
この六支を具備した布施の功徳は衡量することができない:『これほど多くの福徳果、善果、楽しさを齎し、天に生まれ、楽の報あり、天界に導かれ、愛され、楽であり、意のままであり幸福で利益あり、楽しい。』
その大きな功徳の蘊は、唯一、無数、無量によってのみ、計算され得る。」(A.6.37)
何故であるか?施主は、《布施分別經》の中において言及されている所の、四種類の要素が具備されているが故に:
1)彼女には徳行がある。
2)彼女の布施したしなものは、正当な方式で獲得したものである。
3)彼女の心は、清浄で汚れがない。
4)彼女は、業果の法則及びその果報に対して、充分に強い信心(=確信)を擁している。
施主はまた、《六支布施経》の中において言及されている三種類の要素を具備している:
1)布施する前に喜悦がある。
2)布施する時に心に歓喜がある。
3)布施の後、満足がある。
これらの条件は、施主にとって、非常に重要である、施主が男性であろうと、女性であろうとも。
もし、彼または彼女が数えきれない、量りしれない善の果報を獲得したいと期待するならば、それらを具足する様に、努力しなければならない。
しかし、《布施分別經》に基づくと、受者もまた、徳行を擁しなければならない。
《六支布施経》に基づくと、受者もまた、すでに、サマタ・vipassanā(止観)を修行して、阿羅漢果に到達した比庫または比庫尼か、または今まさに貪(lobha)、瞋(dosa)、痴(moha)を断じ除く為に、サマタ・vipassanā(止観)を育成している所の、比庫または比庫尼である必要がある。