これは、真実語の宣言である。この真実語の宣言によって、ウェーサリー城のすべての居住民は、危難<注30>から脱出することができた。
阿羅漢の布施は、最も殊勝である。というのも、それはどの様な未来の果報をも生じることがないが故に。
未来がなく、生、老、病、死がない時、それは最も殊勝である。
これが、今回、一番最初に開示(講話)した時に言及した所の、二番目の布施である:果報なく、結果が生じない布施。
しかしながら、上に述べた一番目の布施、すなわち、果報を生じる布施、例えば人々に楽しさを齎したり、天の楽しさ、または梵天の楽しさを齎すものには、依然として苦が存在する。
最低限の苦とは、施主は、依然として、生、老、病、死に出会わなければならない。もし、施主が、依然として、欲楽の対象、それが生命のあるものであっても、無生命のものであっても、それらに執着するならば、これらの対象が破壊されたり、死亡した時、彼は、愁、悲、苦、憂、悩に巻き込まれることになる。
この問題について考えて頂きたい:
ある種の布施が、生、老、病、死、愁、悲、苦、憂、悩を齎す時、我々は、それを殊勝である、と言えるかどうか?
また、この問題について考えて頂きたい:ある種の布施は、如何なるk法も生じることがなく、生なく、老なく、病なく、死なく、愁なく、悲なく、苦なく、憂なく、悩がない時、我々は、それを殊勝でないと、言えるであろうか?
これが、なぜ、仏陀が二番目の布施を最も殊勝であると、讃嘆する原因である。
今、あなた方は、開示の始めに、我々が言及した二種類の布施の意味を理解できたと思う。
1)大果報のある布施。
2)果報のない布施。
あなたは、どの種類の布施を好むであろうか?
今、あなた方は、答えを得た。