Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(83ー4/5)(私家版)

《カラマ経》は、南伝仏教において、非常に重要な経典である。以下の言葉は考察するに値する:「経典で述べられている事、伝統的に述べられている事、教師が述べた事、文化的に伝承された事……などなどは、軽々しく信じてはならない。」経典にあるからといって、教師が述べたからといって、伝統的に継承されているからといって、その全てを信じてはならない。仏陀は我々にこの様な態度を求めていない。。   仏陀は、先に質疑をし、その後に己自ら実修してみる事を勧めている。。     修行を通して、貪、瞋、痴が軽減したならば、それは正しい。もし、我執、慢心、貪、瞋が増加するならば、その道は正しくないので、これを放棄しなければならない。。。                 「彼は私の教師である。私は必ず彼の言う事を聞かなければならない」と執着してはならない。そうでなければ、信は愚かさに変わってしまう。。。             仏教徒であれば、聞いた事柄を何でも信じるのではなく、深く理解し、実験してみろ事、いわゆる、聞く、思(考える)、修行する、が必要である。。。          反対に、ただ質問するばかりで、修行しないのであれば、それは例えば、宝の山に分け入っていながら、目の前の宝は偽物であるかと懐疑して、せっかく宝の山に入っても、空手で帰ってくる様なもので、これも間違っているのである。西洋人は、慧根が強すぎる。何事にも疑問を持ち、「それは何故か?」と聞いてくるので、進歩がとても遅い。アジア人は信根が非常に強く、進歩は速い。しかし、聞いた事を何でも信じて、考察しないならば、間違いを犯してしまう。これが、アジア人と西洋人の違いである。精進根が強すぎると、ジョウ挙が生じる。特に安般念を修行する時、呼吸が非常に微細になる為、それを明確にしようとして、力を入れて呼吸する様になり、結果、鼻が硬くなり、痛くなる。そして、定を得らないまま、更に努力する為、心は更に混乱し、最後には修行に興味がなくなる。故に、精進根と定根は、バランスしなければならない。もし、定が強すぎて、精進力が足りないのであるならば、人は昏沈する。念根に関しては、料理をする時の塩の様てまある。故に、仏陀は言う:「いつ如何なる時も、念は必要である。」