Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「身念処」1-84

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

ある時、アーナンダは、縁起の法がどれほど良いものであるか、どれほど理解し易いものであるか、仏陀に告げて言った時。

「並非如此(そうではない)」

仏陀は述べる:

「縁起の法は、玄妙であり、かつ、奥深く、理解するのが難しいものだ」。

もし、人が縁起の法を研究するならば、これを主題として論じられている専門書を一冊、探し出して来る必要があるに違いない。

そして、彼は、仏陀の奥深い智慧に対して、本を読み終わるまで、感嘆し続けるであろう。

縁起の法の利益とは、一つひとつの事柄は、皆因によって生じ、かつ無我で、霊魂(+がコントロールしているので)はなく、または上帝が(=最高神)コントロールしているのでもない事を顕示し、「私」という邪見(+の生じるの)を防止する事である。

(1-85につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」1-8

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

(因と縁の浄化、すなわち説明)

その始まりは、以下の通りである:

「私は仏に帰依します、

私は法に帰依します、

私はサンガに帰依します。」

以下は当該の義を解説する方法の本母(=根本で)ある:

「誰によって、どこで、いつ、なぜ、三帰依が述べられたのか?

(世尊)が最も先に(三帰依を)述べたのではないのに、なぜ、ここでは最も先に述べられるのか?

このように、ここにおいて、因と縁を浄化、説明した後、その後において;

仏陀、帰依に関する行い、及び(帰依)を行う者について解説する。

(1-9につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「南伝仏教在家居士須知」改題「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律

ハンドブック」 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」2-7

     <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

そして、「諸々の小さな(聖典)」は、〈帰依〉、

〈学処〉、〈32行相〉、〈問童子文〉、《吉祥経》、

《宝経》、《牆外(経)》、《伏蔵(経)》、《慈経》という、九つの部分で構成された《小誦(Khuddakapāṭha》を初めとして、(このように)配列された(順序によって)また、諸々の導師がねん転として伝誦して来た方式[語道]を採用したのであり、これは仏陀が開示した(順序)とは異なるのである。

世尊が開示した所の:

「多くの生において、輪廻してきて、

流転のうちに探し求めた。

(私は)屋を造る者を見ないでいた間は、

再三再四、生まれるという苦を受けてきた。

おまえを見つけた、屋を造る者よ。

おまえはもはや、屋を造れない(造らない)。

おまえの一切の棟梁は壊れ、

屋根はすでに押し崩された;

私はすでに無為に到達し、

すでに諸々の愛(注10)を尽滅する事を、

証し終えた。」

この二首の偈頌は、すべての[一切の]仏語の中で、(世尊が)最も最初に(述べた)ものである;

しかし、この(二首の偈頌に関して、世尊は)ただ心の中で誦したのみであって、言葉で語ったわけではない。

しかし:

「熱誠静慮婆羅門(注11)、諸法が顕現する時、その一切の諸々の疑惑を滅し、彼はそれは因を有する法である事が知れる(注12)

という、この首の偈頌はすなわち、(世尊が)最初に言葉に出した(仏語)である。

故に、私はこの「諸々の小さい(聖典)」から始まる、《小誦経》の九つの部分の意味を解説したいと思う。

(注10)Dhp.pp.43。

(注11)「婆羅門」。ここでは、「すでに諸悪を取り除いた漏尽者」と指す。すなわち、阿羅漢の事であり、ここでは特に、ゴータマ仏陀が、仏陀になったばかりの時の、自称の言葉である。

(注12)Vin,i,p,2.

(2-8につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「南伝仏教在家居士須知」改題「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律

ハンドブック」中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」2-6

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

なぜ、これを「《小部》」と呼ぶのか?

諸々の多くの小さな法の蘊(=集まり)の群衆とその住処であるが故に。

群衆とその住処という意味において「部(ニカーヤ)」と言う。

如説(注7):「比丘たちよ。私はその他の一部の類が、このように多元性を有するのを見ない。比丘たちよ。ちょうど、この畜生趣の生き物(注8)のように。」

上記の例は、(仏)教から来ている;

そして、「poṇiki(注9)ニカーヤ、cikkhallikaニカーヤ」など(の例)は、(教の外の)世間に基づいて、述べられている。

(本書においては)これが経蔵に属するものである事を示し、区別し、開示したく、また、《小部》の一部分である「諸々の小さな(聖典)」の意味・意義を開陳したいという目的も有するものである。

(注7)緬甸(ミャンマー)版には「如説(yathāha)はない。

(注8)S.  iii,p152。

(注9)「poṇiki」は、緬甸版では、「poṇika」となっている。

(2-7につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「南伝仏教在家居士須知」改題「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律

ハンドブック」中国語版→日本語訳出翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」1-83

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

a)無明から老・死までが、一つの縁起の法である。

その後の、「憂い、悲しみ、苦悩」等々は、踵を接して、その直後に続くものである。

上記は、生が有れば、苦がある事を表しているーー第一聖諦。

この種の、現実的な縁起の法は、生死輪廻と言うーー「(車)輪を有する所の(輪廻)すなわち、有輪」である。

一人の人間が、いまだ生死輪廻の中にある時、この(車)輪は、止まる事がない。

b)項目

1、無明とは、すなわち四聖諦を体験・証悟していない事。

2、ここでの<行>とは、五蘊の中の<行>ではなく、前の生で累積した所の、業によって造りだされる生(=生まれる事)を意味する。

三種類の行がある:善行、悪行、不動行(最高の無色界定)。

3、識は「結生識」の事。

4、名色は、三個の心所法:受、想、思に、業による報身(業によって生じた色身)を加えたもの。

5、六入は、眼、耳など等。

6、触は、心所が心王を導いて、六塵と接触せしめる事。

7、受は、苦受、楽受など等を認識する心所の事。

8、愛は、六根が作用する時に生起する貪心所の事。

9、取は、愛の貪心所によって引き起こされた所の、更に強い貪心所の事。

10、有は、業有または、善または悪の業が存在している事。

11、生ーー五蘊または身・心の事。

12、生があれば老・死がある。

仏陀が、縁起の法を開陳してくれたので、我々は、実相の真理(自然的な真実なる状態)を理解する事ができるし、また、縁起の法自体は、因と縁によって生じている事が分かり得る。

縁起の法を理解する目的は、我々をして、身・心の無常・苦・無我を体験・証悟せしめる事である。

無明は、12縁起の一番目の環であるが、しかし、実際には、12縁起の一つの鎖のようであるか、または円環のようであり、始まりもないし、終わりもない。

しかし、無明は、円環全体の首脳なのである。

というのも、無明は煩悩の根源であるが為に。

故に、智慧が、無明を照らし破るという事がすなわち、この鎖を打ち破る唯一の方法なのである。

無明は、病から来ている:

貪の病、有の病、見(=己の見解)の病、痴(=無知)の病ーーただし、この四種類の病は、みな、無明から生じており、いわゆる無明とは、四聖諦への無知を言うのである。

(1-84につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

是誰庵のひとやすみ~無明縁行の<行>について

仏教というのは難しい。

ゴータマ仏陀の悟りの内容自体が難しいし、2600年前のインドで語られた事柄故に、言葉(パーリ語)の解釈も難しい(パーリ語が死語である事も、ダンマの理解を妨げる)。

仏教で最も重要な「12縁起」も、私にとって、分かったような分からないような・・・特に、第一行目が分からない。

所がところが昨日、「身念処」<1-82>を翻訳していて、目から鱗

無明縁行~~無明の縁によって<行>あり、の<行>は、行いによって、生まれる先が決まる・・・的な意味だったのですね。

<1-82>の(注1)を読むと分かるのですが、<行>とは、あなたの無明(=愚かさ)の度合いによって、善い行いの人は、善い所へ行く。悪い行いの人は、悪い所へ行く。不動行ができる人(四無色定のできる人)は、そのレベルの世界に行く・・・という意味合いですね(<明の人>は涅槃するので、それ以外の善い行いの人も、悪い人と同じく、無明を抱えている、というのがゴータマ仏陀の教え)。

<行>は、パーリ語に戻すと、サンカーラ(輪廻)とかチャラー(行く事、行為)と言われる単語ですが、仏教学者さん、翻訳者さんが一所懸命、言葉を置き換えてくれても、分からないで困ることは多々あります。

無明縁行。

これで一つ、腹落ちしました。

ホッ。

(追補:輪廻には二種類あります。一つは段生輪廻で、通常、我々が思っている所の、人間に生まれただの、餓鬼に生まれただのと言っている輪廻。もう一つは刹那輪廻。これは毎日の日常生活の中で、刹那・刹那に心が立ち上がって、変化して行くのを言う。タイのブッダダーサ尊者は、段生輪廻より刹那輪廻を重視した事で有名~~日本で、ブッダダーサ尊者は輪廻を否定したと誤解する人がいますが、彼は「日々の刹那輪廻から解脱するのが大事」と主張したのであって、段生輪廻自体を否定した訳ではない

人は、一刹那毎に刹那輪廻している事が分からなければ、段生輪廻も分からない(刹那輪廻の先に段生輪廻がある)。12縁起は、刹那輪廻の展開説明でもあり、段生輪廻の説明でもある。

    <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」1-82

     <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

1、無明を縁として、行(注1)あり。

2、行を縁として、識あり。

3、識を縁として、名色あり。

4、名色を縁として、六入あり。

5、六入を縁として、触あり。

6、触を縁として、受あり。

7、受を縁として、愛(=渇愛)あり。

8、愛を縁として、取あり。

9、取を縁として、有あり。

10、有を縁として、生(=生まれる事)あり。

11、生を縁として、老・死あり。

12、老・死は愁い、悲しみ、苦悩、痛み、失望などなどを引き起こす。

(注1)一人の人間の出生を決定する三種類の行とは:善行、悪行、不動行(四無色定)である。

(1-83につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>