問6-3:
北伝の仏教では、菩薩には52の階位がある、と言います。
南伝仏教では、このような階位はありますか?
答6-3:
南伝仏教では、菩薩に階位は、ない。
菩薩は智者ではあるが、彼らの間には階級の差別はない。
問6-4:
菩薩が授記を受けるときの条件の一つは:
仏陀の開示する、短い偈を一首聞き終わる前、
または聞いた後に阿羅漢果を証悟する能力を有し、その後に四阿僧祇劫と10万劫の長い時間の中で、常に如理作意と大悲心を維持することとあります。
もし、そのようであるならば、最後の一世で仏になる直前まで、菩薩は凡夫であり、無明が生起し、欲楽を享受するというのは、信じがたいように思うのですが、どうでしょうか?
答6-4:
あなたは縁起の法則を理解する必要がある。
すなわち:もし無明がなければ、貪愛は生起しない。
我々の菩薩の最後の一生において、仏に成る前、彼は妻のヤソーダラと息子ラーフラに、いまだ貪愛があった。
なぜ、ヤソ-ダラとラーフラに対する貪愛は、無明によるものだと言えるのか?
観智によって照見する時、内部(=己自身)であるか、外部(=他者)であるかにかかわらず、身体というものは、微粒子によって構成されている(+のが分かる)。
もし、これらの微粒子を分析するならば、我々はただ究極的な色法を見るだけ、になる。
これらの色法は、刹那に変化しており:
それらは生起するやいなや消失するが故に、無常である;
それらは不断に生と滅に圧迫されているが故に苦(=不円満)である;
それら(=微粒子)は、不変なる実質を有していないが故に、無我である。
燃灯仏の時代、我々の菩薩はこのような観智を有していたが、しかし、この観智は暫定的に無明を取り除けるだけであった;
ただ聖道智だけが、無明を滅ぼすことができる。こうしたことから、彼にはまだ無明があったのである。
無明のために、彼はヤソーダラまたラーフラは「いる」と思ったのである。彼らをヤソーダラであるとか、ラーフラであるとかに注意(=意識)が行くというのは、不如理作意であり、このような認識は、無明である。
この無明によって、彼はヤソーダラとラーフラを貪愛した。
観智が持続的に生起する時、無明は生起することができない;
しかし、観智が生起しない時、不如理作意によって、無明は生起する。
こうして、彼が人間界に誕生した時、人生への愛着を持っていたし、その一生において仏果を得ようと考えていた。
もし彼が、人の生命について誤解していたならば、この誤解を無明(avijja)と言い、
人生に対する愛着を貪愛(taṇhā)という。
この無明と貪愛によって、心中には、執着が起こる。無明、貪愛と執着によって、彼は善業をなした。その善業の業力によって、彼は人間界に生まれた。無明と貪愛によって、生育し成熟した時、彼はヤソーダラを妻として娶り、ラーフラという男児を生んだ。これらの事柄は、彼が仏に成った後開示した最初の経ーー《転法輪経Dhammacakkapavattana Sutta》の中で、
「凡夫の行為」であると宣言している。
正等正覚を証した後にのみ、彼は完全に心の中の無明と貪愛を滅することができた。
どうしてか?
彼の阿羅漢道智がすでに徹底的にすべての無明と貪愛を滅し去ったからである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)
訳者コメント:下線、赤字、訳者。
<無我>について誤解があると思います。
<無我>に「私はいない」という意味はありません。日本で論点になっている、<(輪廻の)主体があるかないか>と、<無我>の含意は、関係がないのです。
身体は素粒子でできているから、刹那に生・滅しており、ミクロのレベルでは、誰もそれらの生・滅にタッチしていない(=素粒子の自性によって生・滅している)のを、
<無我>というのです。
仏陀在世の当時のインド人の言語習慣で、己の管理を越えているものを<アナッタ=無我>と言ったのです。色法(と名法)の刹那生・滅に関心のある方はパオ式瞑想にチャンレンジしてみて下さい。
ただし、パオ式の瞑想で観察できるのは微粒子(ルーパカラーパ)までで、もう一つ下の素粒子までは、観察できません。縁起法を修行すれば、心の12縁起を観察することもできます。
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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>