戦後の日本の仏教界、僧侶が頼りないので、みなさん困っていた所へ、世界は、原始仏教(根本仏教、パーリ仏教、テーラワーダ仏教)が大流行り・・・ベトナム戦争でタイに駐屯していたアメリカ兵が、休暇に母国に戻らず、タイのお寺に行って修行し、その後、母国に戻って、マインドフルネス(サティの英語訳)を宣伝したのが、テーラワーダ仏教が、西洋世界に伝わった始まり。
根本仏教は、ゴータマ仏陀の金口に近い(まったく同じだという証明は出来ていない)し、呪術、星占いなどを否定して、「何が真理か、まずは、自分の頭でしっかり考える様」励ましてくれるので、現代の、科学的であろうとする人々、理知主義者にも好評である(マルクス主義も、<科学的社会主義>と標榜したら、一時は、とても流行ったものだわ)。
さて、原始仏教、根本仏教が好きな方々、ついでにパーリ語も大好き・・・それはまるで、オタク状態。
貪欲、怒り、無知・・・と日本語で言えばいいのに、日本人同士で、ローバ、ドーサ、モーハなどど、嬉しげだ(でも、名詞の変化形までは言えないし、動詞自体は、覚える事もできていない・・・動詞は、すごく複雑に変化するから~笑)。
私はタイと緬甸で修行し、台湾でドイツ人の先生からパーリ語を習ったけれど、今まで一度も、パーリ語で議論する必要性を感じた事がない。
タイ人も緬甸人も案外、パーリ語(死語)を知らないのです、パーリ語試験に受かった人以外は(ついでに言えば、タイ人の使うパーリ語は、タイ風に変化しており、緬甸人の使うパーリ語は緬甸風に変化していて、本で習う標準パーリ語はあまり通じません~笑)。
そして、一番大事な事、それは、
我々は、パーリ語で悟る訳では、ない事。
悟りとは、己の心の中に潜む、他人を害してでも何かを手に入れようとする歪んだ欲望、功名心、嫉妬、不安、恐怖心を見つけて、それに対して「大丈夫、それがなくても生きていけるよ」と己自身に教えてあげる事。
悟りの瞬間、あなたは、日本語もパーリ語も必要としない世界を、発見するでしょう。
(補足:タイでも緬甸でも、パーリ語が、タイ語、緬甸語の中に溶け込んで、普通に使われていますが(たとえば、タイで、注意力散漫な事を<マイ・ミ・サティ>といいます)、パーリ語経典を読みこなすには、別途<純粋パーリ語>を学ばなければなりません。経典を読む為だけにパーリ語を学ぶ人はあまりいないです。死語であるパーリ語を学ぶのは、主に仏教学者と学僧です。)