Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-122

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

8-10-2 正念と正知

ここでは、自性に基づいて、正念と正知についての解説をする。

正念の特徴は、目標を憶念する事、覚えておく事であり、それは例えば、安般念の似相のようなものである。

その作用は、目標を見失わない事。その現起(現象)は、心を、目標の中に留めさせる事。

正知の特徴は、迷・惑(=迷いと惑い)しない事。作用は省察して見る、(判断)する事。

現起(現象)は目標を検査する事。

正念と正知は、ジャーナの少し前に存在する(訳者注:レベルの低いジャーナの人の中にも存在しえる、の意)が、(+ものごとを)よく忘れる人、正知の無い人は、近行定を証得する事ができず、安止定は、更に得る事ができない。

しかし、それらのジャーナは比較的粗い。

故に心は、禅修行の目標に専注する事ができる。

それはちょうど一人の男性が平原を歩ききるようなものである。

故に、正念と正知の作用は、それらのジャーナの中においては、不鮮明になる。

ただ、ここで(+私が)初めて正念と正知を語るのは、このジャーナは、粗い支を捨離した後には、微細のレベルが上がるので、心は毎回、正念と正知の作用を具備して初めて、禅の修行の目標に入る事ができる、という事があるからである。

それはちょうど一人の男性が、刃物の鋭い刃の上で歩いているようなものである。

また、ちょうど母牛について歩く子牛のように、一度別れた後も、また母牛の所へ戻って行くように、心もまた喜から引き離されて、第三禅に入ったものの、もし、正念と正知によって守られていないならば、それはまた喜へと戻って行く。衆生は愛楽に貪欲で、また、この種の楽は、非常に甘美なものである。というのも、世間でこれ以上の好いものはないのであるから。

しかしながら、ここにおいて、(+修行者において)当該の楽への欲求は、ない。これは、正念と正知を原因としており、その他の原因においてではない。

(5-123につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>