南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

《Vipassanāハンドブック》5-2(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

この二者の間では、死後、悪趣に堕ちる生命は、死亡より尚に、劣悪である。

というのも、四悪趣(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅)と大無間地獄は、ちょうど障礙のない空間にようで、人趣を離れた凡夫に対して、大きく(+口を)開いているのである。

ひとたび、寿命が尽きると、人はどのような地獄にも堕ちる可能性がある。

遠いもの、近いものに関わらず、その受ける苦には、中断する時間的間隙がない。

その後、彼は畜生、餓鬼(可哀そうな鬼、幽霊)に転生するかもしれない;

あるいは、阿修羅に転生して、一瞬のうちに、帝釈天の敵になるかも知れない。

同様に、もし、一人の人間が、欲界の六欲天において世を去るならば、(いったん生命の終りに、彼はどこかの地獄に落ちるかもしれないが)しかし、彼が色界または無色界において、その寿命が尽きたならば、彼は四悪趣に堕ちる事はなく、人、または天人になり、そして、その後に四悪趣に堕ちる。

なぜ、我々は:

「すべての生霊は、みな死ぬのを怖がる」

と言うのか。

というのも、死後、四悪趣に堕ちるかも知れないからである。

もし、死後、悪趣に堕ちないのであれば、また、我々自身が、再生の場所を選択することができるのであれば、真にその通りにできるのであれば、人々はこれほど、死を怖がることはない。

ある種の状況おいて、ある種の人々は、相当長い歳月生きて、他趣に往生したいと願う時、死にたいと思う事が、あるかも知れない。

人趣に生まれることがどれほど殊勝であるかを説明する為に、《爪頂経》(nakhasikha)と《盲亀経》(kanakaccapa)を引用する。

(5-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>