Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#13-17

<注71>=《沙門婆羅門経》(Samaṇabrāhmaṇa Sutta)。仏陀は、《中部・韋克那思経》(Vekhanasa Sutta)(韋克那思は一遊行僧の名前)の中において、以下の様に言う:「もしあれらの沙門、婆羅門が前際を知らず、後際を見ないのに、己みづから『我々は、生が已に尽きた事を知っている、梵行は已に立ち、成すべきことはなしおえて、再び、後有のある事が無い』と言うならば、法に依りて、彼らを叱責する事ができる。(M.2.281)

<注72>=詳細は、「如何にして未来を識別するか」、及び「表1d:死亡と結生」を参照の事。

<注73>=<大財長者子物語>(Mahādhanaseṭṭiputtavatthu)を参照の事。Dhp.A.」155-156.

<注74>=上記経文に関する引用と分析はP~~参照の事。

<注75>=<有輪論>(Bhavacakkakathā):経文は、《大因縁経》(Mahānidāna Sutta)からの引用である(D .2.95)

<注76>=縁起、縁の滅及び過去、未来の名色法の識別に関しては<第六講 如何にして縁起の連結を透視するか>、及びP~~を参照の事。

<注77>=「諸法」に関しては、注21を参照の事。

<注78>=《中部・教誡闡那経》(Channovāda Sutta)の義注は以下の様に言う:

「これは私のではない」は、苦を思惟する事、

「これは私ではない」は、無常を思惟する事、

「これは私の自我ではない」は、無我を思惟する事。(M. A. 391)

<注79>=<摩克拉哲学童問>(Mogharājamāṇavapucchā)、《清浄之道・行捨智論》(Saṅkhānupekkhāñāṇakathā)(Vm.765)もこの經を引用している。

<注80>=空の想に関しては、問答5-9を参照の事。

<注81>=涅槃を証悟する時、必然的に、完全に目覚めている事に関する討論は、問答3-2を参照の事。

<注82>=涅槃の証悟に関しては、「涅槃を知見する」P~~を参照の事。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>