今私は毎日、パオ・セヤドーの著書
『親知実見』 (Knowing and Seeing)
を翻訳していますが、疲れると
『生活と修行の為のアビダンマ』(中国語版)
という本を、気分転換に、手に取って読みます。
この本の中に、
【(高僧であっても)仏教は説明するのが難しい、
それは四つあって
1、四聖諦(苦・集・滅・道)の説明が難しい・・・
2、衆生の説明が難しい・・・
(男性、女性、犬、猫などの衆生はいない、すなわち、有情、生き物は<無我である>が故に存在しないのだ、という説明が難しい。
↑ これは、素粒子物理の学びが役に立つかと、思います。ダライ・ラマ猊下も、『素粒子物理の研究が進んだお蔭で、仏法の説明が楽になった』と述べています)
3、世間と出世間の説明が難しい・・・
(世間とは五(取)蘊、名色の事であって、我々が
「世間、世の中は、世知辛いよなぁ」
という時の <世間> とは、まったくの別物ですが、この説明がなかなか難しい。)
4、縁起の説明が難しい・・・
(縁起とは何か?という、定義そのものに関しては説明できても、例えば、同じ出来事、同じ事件を聞いても、Aさんは怒り、Bさんは悲しんだりする、その怒りや悲しみ、幸せや不幸の、具体的な、因と縁と果の絡まり合いを、解きほぐして説明するのは難しい。
それは仏陀にしかできず、凡夫にはできないのだ、と言われています。)
出家者が在家者に仏法の説明、法話、開示をする時、立ってするな、という戒律があるのですが、教えを乞う者は、座して三礼(注1)の後に、心して聞くべし・・・
それでも仏法(アビダンマ)は難しすぎて、よく分からないのですよね(笑)。
一生学び、一生修行。
(注1)仏、法、僧に各一礼で、合計三礼。
<僧>は複数形で、サンガの事。
個人単数では、僧侶といい、出家比丘、サヤレー、在家者が三礼する時、目の前の僧侶個人に、礼拝している訳ではない。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>