Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』Knowing and Seeing#31-5

問3-2:近行定と安止定の違いは何でしょうか?

答3-2:似相が出現した時、定力は非常に強い。

しかし、この段階では、いまだ尚、近行定の段階に属しており、禅支はいまだ完全には展開しえておらず、有分(bhavaṅga)は依然として発生して、禅修行者は有分に落ち込む。

有分に落ち込んだ禅修行者は、一切が停止した、というか、または、これこそが涅槃だと誤解して、「その時、私は一無所知(一つも知る所がない)」と主張する。彼が引き続きこの様に修行し続けるならば、有分の中において、非常に長い時間止まる様になる。

どの様な種類の修行方法であろうとも、それが良いものであっても、良くないものであっても、一たび繰り返し修行するならば、彼は最後には目的を達成することができるが、これを「熟能生巧」(熟せば巧みが生じる)という。上に述べた状況もまた同様で、一たび繰り返し修行するならば、彼は、有分に非常に長い時間落ち込むことができる様になる。

なぜ彼は一無所知と言うのであろうか?

というのも、有分の所縁は、前世臨終心の所縁であり、当該の所縁は、

業(Kamma)でもあり得るし、

業相(kamma-nimitta)でもあり得るし、

また趣相(gati-nimitta)でもあり得るからである。

しかし、禅修行者はこの点を見る事ができない、というのも、彼は今なお、縁起を識別することができないが故に。

唯一、縁起を識別する時にのみ、彼は、有分がこの三種類の所縁の内の一つを縁として取る事を見ることができる。<注145>

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>