Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#39-12

上記の事柄は、道果を証悟した後においては、菩薩になりたいと、心の意向を変更することはできない、という事を意味している。

これより外に、仏陀または阿羅漢の授記を得た後もまた、心の意向を変更することはできない。

しかし、ある種の人々は、未来まで待って後、阿羅漢を証悟したいと希望しながら、後に心の意向を変えて、この生において、阿羅漢を証悟したい、と思う(様になる)。

《清浄之道》は、大僧護(Mahāsaṅgharakkhita)大長老の例をもって、この件について説明をしている。<注302>

彼は、四念処に精通し、すでに、止観を修習して、行捨智を証得しており、かつ、正念を欠いた言動をしたことがなかった。

彼が蓄積した止観のハラミツはすでに、充分に熟しており、ただ、阿羅漢を誦としたいと念願しさえすれば、よかった。

しかし、彼は、聖慈氏仏(Arimetteyya Buddha)に会いたいという希望を持っていたために、その教法の時代になるまで待って後、阿羅漢を証悟することに決めた。

我々が、先ほど提議した所の正性定律に基づけば、もし、彼が今生において阿羅漢を証悟するならば、聖慈氏仏には会えないのである。

しかし、彼は臨終の時、多くの人々が参集して、彼に会いに来た。というのも、彼らはみな、彼が阿羅漢だと思っており、いまにも般涅槃するのだ、と考えた故に。

しかし、実際は、彼はいまだ、一人の凡夫であった。

彼の弟子が、非常に多くの人々が、彼がまさに、般涅槃しようとしていると考えて、この地に参集している、と報告した。

大長老は言う:

「おお、私は、本来は、聖慈氏仏に会いたいと思っていたが、しかし、今、大衆が雲集しているのであれば、私は、禅修行をしよう!」

彼は、観の修習を開始した。

この時、彼はすでに、心の意向を変更したのであるが、また、彼は、過去生において、授記をえていなかったために、非常に速くに阿羅漢を証得したのである。

仏陀の時代、当時の名を、アジタ(Ajita)といった聖慈氏仏以外に、仏陀がその他の菩薩に授記を与えたという記載はない。

パーリ三蔵においても、聖慈氏仏の後において、何時、一人の仏陀が世に出るかということは、言及されていない。

故に、我々は、仏陀の時代、一体何人の菩薩がいたか、という事に関して、説明ができないのである。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>