南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

翻訳『親知実見』#47-16

問7-16:どの様にして、長時間修行したため、または一人で森林に住むために生じる退屈心と、(修行を)面倒だと感じる心を克服しますか?これらの心は、不善法ですか?

答7-16:この種の心は、懈怠(kosajja)と言う。通常は、貪または瞋恚等と相応する所の微弱な不善法である。この種の心は、不如理作意によって生起する。もし、一人の人間が、不如理作意を改めて、如理作意と取り換えるならば、彼の禅修行は成功する。

この種の心を克服するため、あなたは、時には、我々の釈迦牟尼菩薩が仏陀になったのは、彼の堅忍不抜が源となっていることを憶念するべきであり、また、あなたはそれらの精進努力、万難を履歴して初めて禅修行の成就を見、かつ、最終的に阿羅漢を証悟した聖者たちの物語を憶念するべきである。奮闘を経ないで、卓越した成就を得ることが出来る人はいない。

禅修行では、堅持することは必要であり、如理作意もまた非常に重要である。

あなたは、縁生法の無常・苦・無我の本質に留意することにチャンレンジするべきである。

もし、この様にするならば、いつの日か、あなたは成功するに違いない。

問7-17:セヤドーに、無明(avijjā)、愛(taṇhā)、取(upādāna)という、これらに相応しないという願望(を実現する)例を説明して頂きたい。

答7-17:もし、あなたが、善業をなしている時に、観の修習を実践し、これらの善業の無常・苦・無我の本質を観照するならば、無明(avijjā)、愛(taṇhā)、取(upādāna)は生起しない。

もし、あなたには、観の修習をする能力がないのであれば、以下の様に発願することもできる:

”Idaṃ me puññaṃ、nibbānassa paccayo hotu.”

ーー「私のこの功徳が、涅槃を証する縁となります様に!」

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>