凡夫は、常見の認識しかもたない。という事は、常に一個の
「自我」があると思っている。故に、凡夫は、縁起について、
非常に奥深く、理解しがたいものに思える。彼らからすれば、
縁起とは、先ほど述べたように、絡まってしまった糸のよう
に、奥深くまた複雑な哲学のように思えてしまう。
そうして人は、論争に力をつくし始める。
それはまるで、視力障害者が象を撫でるがごとく、彼らは、
象の異なる部分を撫でては、争いを巻き起こすのである。
しかし、阿羅漢から見れば、縁起とは、一種の自然なる
知識であり、公開して証明する事の出来る科学であり、
または手にとって観る事のできるものである。
たとえ縁起の支分の各種の名称を知らなくても、彼は
一切の事物、出来事をはっきりと看破したので、二度と
執着する事はなく、どのような情況に接触しようとも、
愛(渇愛)や取を生じさせることはない。
彼は縁起の各支の名称を知っていなくとも、縁起の内容
を他人に非常に詳しく説明する事はできなくても、また、
まったく縁起について説明できなくても、問題はない。
ただただ、阿羅漢は、最も円満なる正念を具備している
がために、縁起の還と滅の方法によって、完全に苦を
滅することができるのである。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)