南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

是誰庵のひとやすみ~『智慧の光』の読み方

私は1998年に、台湾でパオ・セヤドー著『智慧之光』(中国語版)を手に入れて後、当該書籍の日本語訳に取り組み、その後20年来、『菩提資糧』など、パオ・セヤドーの他の著作、テラワーダ系の、私が良い思った比丘尊者、メーチ(尼僧)の方々の著作も、何点か翻訳して参りました(現在進行形で、Web上に、公開して、載せてあります)。

故に、私の立ち位置は、翻訳僧兼修行僧といった所で、仏典を研究する学僧ではありません。

ですから、仏教学会に所属する学僧程には、ダンマに関して、緻密な考察はできておりませんが、パオ・セヤドーの著書『智慧之光』の翻訳を通して、2つばかり、注意しておく事柄があると思いましたので、ここに記させて頂きます。

一つ目は、私のブログで言及致しましたように、マハーシ瞑想における刹那定の問題です。一度も禅定に入らないまま実践する刹那定は、正定ではない、というのがパオ・セヤドーのご意見です(この件は既出ですので、これ以上、ここでは述べません)

次に、有分(心)の件です。

マハーシ瞑想では、相当の深さで定に入った時、涅槃体験をする事ができる、と言います(ラべリングしながら深い定に入れるのかどうか、涅槃体験の為の、別の修法があるのかどうかは、筆者には不明)。

その涅槃体験においては、意識はまったくの暗闇にいる様で、何も見えない、何も知られない。

定から出てきて初めて「ああ、私は涅槃体験をしていたのだ」と知ることができる、と言うのです。

パオ・セヤドーは、涅槃体験をしている最中「『私は今、涅槃体験をしている』と、明確に意識している」と、言います。

「涅槃体験とは、心が、心の所縁として、<涅槃(空)>を対象にとったもの」と定義できますが、その時、心は、己が涅槃体験をしている事は明確に知っている、というのがパオ・セヤドーのご意見です。

これを第四禅に当てはめると、

「第四禅に入ると、何も分からなくなる」

と主張する人がいますが、それは第四禅の定義<一境性の保持>とは状況が異なる、と考えられます。

<第四禅に入ったら、心は、何も分からない>

<心が涅槃体験している最中、心は何も分からない>

という主張に対して、パオ・セヤドーは「それは心が有分(心)に落ちたからだ」と『智慧の光』の中で述べています。

心が定に入りながら、所縁を見失って(正確には見失ったのではなくて、心が有分に落ちて、結生識の業のイメージを対象に取っている)、何も分からなくなった後、定から出てきて、素の意識で「これは第四禅だ」「これは涅槃だ」と断定する・・・

この種の誤解は、修行者の内に多々あるようで、パオ・セヤドーが著書の中で、批判し、注意を促しています。

パオ・セヤドーは『智慧の光』等の自著と《清浄道論》をしっかり読めば、自分一人で修行しても、涅槃を悟れると励ましてくれています。

悟るための法門は色々あって、パオ・メソッドもその内の一つでありますが、「第四禅とは何か?」「涅槃とは何か?」の定義が、宗派宗門ごとに、バラバラであっていいはずがありません。

パオ僧院に行かれる方も、ご自分で修行される方も、もう一度、『智慧の光』で確認されるようお願い致します。

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>