★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』15-3
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
たとえば、目が美しい色塵を見る時、見始めた最初の頃に、眼識と共に生起するのは捨受であるが、しかし、不断に色塵の美しさを思惟する事(意触)を通して、楽受が生じる;
もし、目が、嫌いな人を見たならば、見始めた最初の頃に、眼識と共に生起するのは捨受であるが、しかし、嫌いな人の憎々しさを、不断に思惟する事によって、苦受が生じる;
もし、目が見ず知らずの人を見るならば、この人の中立的な所に鑑みて、不苦不楽受(捨受)が生じる。
耳が(+己を)賛美する声を聴くとき、その聞き始めのころに、耳識と共に生起するのは捨受であるが、しかし、他人が己を賛美するのを不断に(+聞いてそれを)思惟すると、楽受が生じる。
もし、耳が(+己を)誹謗する声を聴くとき、他人の己への誹謗を不断に思惟する結果、苦受が生じる。
一般的な音を聞くとき、音の中立性を思惟して、不苦不楽受が生じる。
このように、触食は、三種類の受を、支えるのである。
(15-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>