<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
尋、思と作意の違い
尋は、心と心所を、目標に投入する(+役割を持つ);
作意は、心と心所を、目標に転向せしめる;
思は、心と心所を、目標に向かわせる様、促す(+働きをする)。
これらの間の違いについて、マハーガンダヨン長老は、ボート遊びの時を例にして、以下の様に、説明している:
ボート遊びをする時、小さなボートには、それぞれ三人の人間が、乗り込む。
一人は後ろに座り、一人は真中に座り、一人は前に座る。
後ろの席に座っている漕ぎ手の選手には、二つの任務がある。
すなわち、ボートの方向をコントロール(制御)する事と、ボートが前に進む様、漕ぐ事である;
真中に座っている選手は、ボートをコントロール(制御)する事はなく、ただ、前へ前へと漕ぐだけである;
前に座る選手は、ボートを前に向かって漕がなければならないだけでなく、終点に到着すれば、ゴールの作業をしなければならず、彼が一番忙しい。
前に座る選手は、思の様であり、真中の選手は尋の様であり、後ろの選手は、作意の様である。
この様に、作意は、相応する心と心所を、目標に向かって転向せしめ、尋は、作意の指示を受けて、心と心所を目標に投入せしめる。
思が、最も忙しい。
それはちょうど、大工の良き助手の様に、己自身の仕事をこなさねばならないだけでなく、同時にまた、その他の弟子(相応する心と心所)が仕事をする様にと、促さなければならない。
禅修行者は、それらの各々の作用に鑑みて、智でもって、それらを識別しなければならない。
(8-10につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijyubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>