表1b:意門心路(manodvāra vīthi)(色彩所縁を例にして)
●一個の心は、一個の心識刹那(cittakkhaṇa)をのみ、維持する。
生(uppāda)↑、住(ṭhiti)|、滅(bhaṅga)↓の三段階を含む。●一つひとつの心路の間には、多くの有分心が生起する(表1d:死亡と結生を参照の事。)
●意門心路の前は、一個の五門心路または、その他の意門心路である。
《以下は表1b。。<菩提樹文庫>PDF版にて挿入、公開》
「表1b:意門心路」に関する更に一歩進んだ説明
認知とは、一個の固定した順序を持ち、それは、心の定律(cittaniyāmā)に照らして、進行する。認知によって、物(色彩)を見る、という事柄を例に取る:<注277>
第一歩:眼門心路が所縁を「収取する」;
色彩を認知する。(表1c:五門心路、中国語原文p271参照の事。)
第二歩:意門心路が色彩を感知する;
過去の色彩を識知する、すなわち、眼門心路の所縁を識知する。
第三歩:意門心路が、それはどの様な種類の色であるか、を識知する。色彩の名前を知る。
第四歩:意門心路が、所縁の「意義」知る;全体の影像(イメージ)を見る、すなわち、過去の経験(想(saññā)から確立された概念である。
第五歩:意門心路が、判断と感受を行う。これが、真正なる認知の開始である。それ以前の意門心路の中において、速行心の思は非常に弱いものであるため、造(ナ)された業は、ただ、当期の生命期間(pavatti)においてのみ、果報を生じるせしめ、結生心(paṭisandhicitta)を生じることはできない。
第四個目の、意門心路から、概念が了知される:
「男性」、「女性」、「罐」、「スカート」、「金」、「銀」など。
また、当該の意門心路から、迷執(papaṅca)が始まり、業もまた、完成を得る。すなわち、一つひとつの速行心の中において、同一の所縁を縁に取る所の思(cetanā)心によって完成される。
如理作意(yoniso manasikāra)を経て、善業は、完成する。例えば:師長(指導者)、仏像、比庫を尊敬し、礼を尽くす;止禅業処を了知する;
観智でもって、諸々の行を無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta)または不浄(asubha)として照見する。
不如理作意(ayoniso manasikāra)を経て、不善業は完成する。
例えば、自我(私の存在、私のエゴ)がある、夫、妻、子供、財産などが真実に存在している、それらが、常(nicca)、楽(sukha)、我(atta)または浄(subha)である、と思う。
同じ所縁と想に対して、無数の意門心路(一系列の行(saṅkhārā))が発生して、心が新しい所縁に転向するまで、不断に認知を強化する。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>