先日、ある方とお話しをしていましたら、突然、
「サヤレーは、(止観の)修行・修行と、口うるさいですが、人間、ありのままではいけないのですか?」
と聞かれました。
私は、この様に答えました。
「例えば、まだ小学生、中学生くらいの子供が、一生懸命何かにチャレンジして、失敗してしまった。
シクシク泣いているので、
『いやいや、あなたは、よく頑張りました。
あなたは、このままでいいのよ。
あなたは、ありのままでいいのよ』
と言って、励ますのは、有り、です。
しかし、大の大人が、貪・瞋・痴丸抱え、己自身の弱点・欠点(=悪業)を直視しないで、ただ
《ありのまま・ありのまま》
と呪文を唱えても、己自身も変わらないし、あなたを取り巻く(心理的)環境も、変わらないでしょう」。
大きくは、戦争や人種差別、男女不平等、貧富の差、陰湿ないじめ、小さくは、日常生活におけるイライラ、卑屈、傲慢等の感情のゆらぎ等々、今すぐ社会を変えたり、他人を変えたりすることはできなくても、仏法からヒントを得て、修行するならば、己自身の立ち位置、中心軸をよい方向へ持っていく事は、できる。
中国語の仏教書を読んでいて、
<人間は、ありのままでよいのだ>
などという文章に、寡聞にして、一度として、出会った事がありません。
なぜ、日本では、修行をしない免罪符として、
《ありのまま信仰》
が流行するのか、私には、ちょっと分かりせん。
私は、ゴータマ仏陀の提唱した、
<止・観瞑想(16観智)>を完成させた後、
無常・苦・無我と涅槃を知る <聖者> となった
その後に <ありのまま> に生きるのならば、
それは有り、と思っています。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay般若精舎>