南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(89ー6/7/8)(私家版)

我々は既に説明した:「四種の法は、非常に教え難いし、又非常に理解するのが難しい。その中の一つは、この結生識て、非常に多くの人々は、結生識を、過去世の霊魂が、この一世に来たものだと考えている。もし、その様であれば、同一の我が存在する事になるが、その様な見方は、常見である。しかし、結生識が、過去世と全くもって無関係であるとも言えない。というのも、結生識は、過去世の臨終速行心の所縁を縁にして生起するのであるから、過去世とは関係がある。もし、結生識は過去世と全く関係がないと言うならば、これは又別の、もう一つの邪見であり、断見と言う。心識(結生識)は純粋に、因縁が生滅しながら相続する所の、不断なる過程であり、生・滅・生・滅……しているものである。これが最も標準的な答えである。12因縁に基づけば、因が生起するが故に、果が生起し、因が滅するが故に、果が滅するのである。」故に、仏陀は言う:「無明の縁によりて行あり、行の縁によりて識あり、識の縁によりて名色あり、名色の縁によりて6処あり……皆、因縁の法である」と。。。。                結生識が生起する因縁について、我々は既に説明した。。。           「一個の因が、一個の果を生む、という事はない。多種多様な因が、多種多様な果を生む。」結生識も又一個の果ではない。結生識の生起は、相応の心所及び色法が関わっており、一個の果のみ、という事はないと。結生識が生起する因縁は、四種ある:一番目は無明、二番目は愛欲。例えば、人が臨終の時、愛欲が未だ取り除かれていない為に、なお依然として生命に執着する。生命に執着する事は、非常に強力なエネルギーであり、心識をば、この一世から次の一世に押し込んでいく。これが貪愛の力である。生命を貪愛する事は、無明であり、無明は、貪愛の危険性を知らず、生存の危険性を知らず、一つ一つの生命は皆危険である事を知らない。何故危険であるのか?例えば、我々の身体は、病魔が充満している。全ての病の基礎である。全ての病は、身体を縁として生起する。故に、過患に満ちていると言う。無明は、輪廻の危険を知らない。故に貪愛し、生命に執着する。三番目は業である。全ての、無明と愛欲を基礎にしてなされた業は、皆、結生識を生む。四番目は、所縁、即ち、臨終速行心の所縁である。一つ一つの心識は、必ず所縁を取って生起する。所縁がなければ、心は生起しない。結生識が生起する為には、やはり所縁が必要である。これは、24縁の中の所縁縁に相当する。この4個の因が、結生識が生起する為の因縁である。。。  もし「誰一人として輪廻する衆生はいない。誰が果報を体験しているのか?」と問うならば、果報は楽と苦を含むが、楽と苦を体験しているのは受の作用であり、受蘊が果報を体験しているのである。誤解して、受、受蘊を我(受は我、我は受)と見做すならば、これは皆、有身見である。有身見は、我々の頭をして、四悪道に向かわせる煩悩である。。。         我々は既に行が如何にして結生識の縁になるのか、を説明した。今、行は如何にして生命機関の中における心識の縁になるのか、を説明する。結生識が過ぎた後、16個の有分識が生起する。その次に一番目の心路過程などなど……で、ゆっくりと、胎児の5根が、母胎の中で成長する。出生の後、目が色塵に触れると、眼門心路が生起し、耳に音塵埃が触れると、耳門心路が生起する。5門心路過程の中においては、領受、推度……がある。故に、双5識、領受、推度等などは、皆、生命期間中に生起する所の果報識なのである。