Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(93−1/94−1/95−1)(私家版)

■縁於有、生生起(有の縁によりて、生が生起する)                 生の意味は、新しい一世において、初めて生起する所の、何かの蘊、5蘊でも、4蘊でも、一蘊でも、どれも皆、生と呼ぶ。生は又、新しい一世の世間的果報心及び相応の心所及び業生色を指す。どこか一個の生存地、それが悪趣地であっても、善趣地であっても、色界や無色界地であっても、そこにおいて生起する事を、生と呼ぶ。。。    ■縁於生、老死等生起(生の縁によりて老死等が生起する)             生は老いを齎す。「老い」は、身体の老化を言う。例えば、齒が抜ける。白髪になる。皺が増える。視力等の5根が退化するのは老いの現象である。「死」は、蘊の崩壊、分裂を言う。「愁」は精神上の極度の悲哀。「悲」は、無くした後に悲泣する事。「苦」は、身体上の苦痛。「憂」は、精神上の苦痛。「悩」は、精神上の極度の悲哀と絶望。。。             生がひとたび発生したならば、老いと死亡は避ける事ができない。そして、生と死亡の間には、その他の苦、例えば、愁、悲、苦、憂、悩、怨憎会、愛別離………が発生する。これら一切の苦の根源は即ち生である。故に、「生」はそれらの主要な縁と見做される。

■輪廻を断つ方法             12因縁とは:無明縁行。行縁識。識縁名色。名色縁6処。6処縁触。触縁受。受縁愛。愛縁取。取縁有。有縁生。生縁老、死、愁、悲、苦、憂、悩。。。      これが、12支の循環である。これを如何にして断つのか?受から始めるのである。触を断つ事は出来ない。というのも、色塵が、眼浄色を衝撃する時、即刻眼触が生じるが故に。受を観ずるのは比較的容易である。受には、苦受、楽受、不苦不楽受がある。如何にして受を切断して、受が愛まで伸延しない様にするのか?受を無常、苦、無我として観ずる。もし失敗したならば、受は愛まで伸延するので、それを無常、苦、無我として観ずる。受を観ずる事は受念処であり、愛を観ずる事は、心念処である。愛が生起する度に、愛を無常、苦、無我として観ずる事が出来るならば、燃えている灯火に、もはや油を注がない様に、一定の時間が経てば、火は消えるであろう。もし、常に油を注ぐならば(愛を伸延させる)、灯火は永遠に消える事はない。同様の道理で、油は愛であり、愛が生起する度に、それを、無常、苦、無我と観ずるならは、灯火に油を追加しないのと同じであり、愛はやがて滅し去るであろう。。   愛が滅すれば、取が滅する。取が滅すれば、有が滅する。有が滅するれば、生が滅する。。。                 これは仏陀が《相応経》において述べているものである。。。             もし、愛が生起したその時に、それを無常、苦、無我として観ずる事がないならば、即ち、愛が生起する度に、愛の縁によりて取が生起し、取の縁によりて有が生起し、有の縁によりて生が生起する。生の縁によりて、老い、死亡、愁、悲、苦、憂、悩が再び生起する。その後に、又、無明の縁によりて行が生起し……輪廻はひたすら循環する。これは灯火に油を注いで燃え続けて、滅する事がないを意味する。これは、非常に重要な一節である。もし、修行の中において、(上のレベルに向けて)突破したいと考え、輪廻を断ち切りたいと思うならば、愛の生起するその一刻において、それを取まで延伸させてはならない。我々は、受から観を始める事ができる。もし、受が愛まで延伸したならば、愛を無常等と観じなければならない。又は愛の過患を見る。故に、一刻一刻が、修行であり、リトリートの時を待って後に、修行に取り組んではならない。