<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
●では、どのようにすれば、慈心の感受を育成し、育てていけるか?
慈心の育成と成長は、決して急いではならない。
最も重要な事は、衆生の真・善・美が見えるようになる事である。
●簡潔に言えば、「美」が見えれば、慈心を生起させる事ができる。
美は、決して一種の罪ではなく、瞋行者にとっては良薬になるものであるし、慈心を修習する時の、最も良好な助縁となるものである。
●もう一つの重点は、他人を愛する前に、己自身を愛することを、学ばなければならない。
●もし、己自身が、真実幸福な人間であれば、非常に自然に、(+その幸福を)他人と共に享受したいと思うものである。
幸福な人は、他人への関心も、持ちやすいのである。
●美を鑑賞し、己自身を本当に愛する事を学ぶ。
●花園を散歩して、きれいな花を鑑賞し、海辺に行き、山に登り、日の出を見、郊外に出て、野に遊び、湖で夕日を鑑賞する。
たまには己自身にご褒美を。
●鑑賞すると同時に、己自身をリラックスさせ、新鮮な空気を吸い、心内の悶々とした気分を吐き出す。
●休息する時、あなたは、あなた自身、すでに長い間、己という衆生に、関心を寄せていないことに気が付くであろう。
あなた、己自身である所の衆生は、どれほど深く愛され、関心を寄せてもらいたい存在であろうか。
あなたは物質の(+手当の)面においては、非常に多くのものを受け取ることができるが、心霊(=心)においては、大きな欠損がある。
●いわゆる<物質的な手当>も、デパート・商人たちの広告に過ぎない。実際、あなたは、あなたの身体の上において、色々、塗りたくっているだけであって、身体の内部は、むなしく空洞なのである。
●故に、己自身を愛するという事柄は、<休む>ことから始めなければならない。
生命の一部は、母なる大地の懐に、いだかれなければならない。
己自身を、大自然の美しい旋律の中で沐させ、小鳥の歌声、滔々とした波の音を聴く・・・憂いもなく、心配もない感覚を感受する。
●もし、ある日、あなたが己自身を、天真爛漫な一人の子供のように感じることができたならば;もし、ある日、あなたが愛されているという感覚を感受し、子供のように守られていると感じることができたならば、あなたは、あなたの慈心禅の修習の過程において、すでに半分は成功したのだと言える。
では、残りの半分は?
あなたは引き続き、あなた自身を愛によって潤し、灌し・・・一人一人の心を潤すまでに・・・家まるごと・・・町まるごと・・・すべての老若男女に・・・この愛があふれ出すまで、一日また一日と、成長していくようにする。
●これが慈愛ーー慈心禅である。
(4-24につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>