Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2018-06-01から1ヶ月間の記事一覧

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-7

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 業果報の観察 業について語るならば、必ずや、業の果報についても語らねばならない。 果報とは安定しているもので、不善果報は安定しているもので、善の果報も安定しているもので、道と果の果報もまた、安定して…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」3-6

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 彼のこの邪行において、淫行をしてはならない対象において、徳行がないか、または無いと等しい場合は、小罪となる; もし、(+対象が)戒等の徳行を具足している場合は、大罪となる。 この(欲邪行)には、四種…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」3-6

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ここにおいて、男子に関して言えば、淫を行ってはならない対象は、20種類の女性であり、それはすなわち、母によって護られている女性など、10種類、すなわち、 母が護る女性、 父が護る女性、 父母が護る女性、 …

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-6

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> もう一つ例を挙げる。 寺院を建築する時、その担当者は早く建てたい、美しいものを建てたい、道場を荘厳あるものにしたい、と思う。 この時、彼の思は、他の人とは非常に異なる状態になる。 その差は、彼の心意が…

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-5

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 業は種子の如く 古徳と論師たちは、「業」を「種子」に例える事が多い。 大樹はなぜ大きくなるのか? それは種子があるが故に; 若し種子がないのであれば、木は育つ事ができない。 大樹が成長するのは、色々な種…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」3-5

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この(不与取)には、五種類の構成要素がある: 「他人の所有物である事、他人の所有物であるという思がある、盗む心、行動する、及び当該の行動によって、取る事」である。 自ら取る、などの六種類の方法がある…

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 異刹那業縁(注7) (nānākkhanikakaṃ) 次に、読者の皆様が比較的理解しやすい「異刹那業縁」と、比較的理解しにくい「俱生業縁」について、説明する。 異刹那業縁とは、今現在造(ナ)した善業が、いまだ報いを…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」3-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 未だ与えられていないものを取るのを「不与取(adinnādāna)」という。 すなわち、他人のものを取る、盗賊的行為、盗む、などを言う。 「不与」とは、他人が持っている【擁している】ものという意味であり、他人…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」3-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 加行【努力】が大きいが故に; 加行が同等の場合、対象が大きい事によって(大罪)となる。 有徳の人類等にとって、微徳の生物の殺害は、小罪であり; 大徳行の生物に対しては、大罪となる。 身体と徳行が同等で…

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 先に業縁の定義をする。 業には二種類ある: 「異刹那業縁」と 「俱生業縁」(注5) である。 もし、すべての思心所を業と呼ぶならば、思心所及び、その思心所に相応して生起する所の、心、心所、及び心生色法な…

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 善業と悪業とは、善業または悪業を造作する時の、「思心所」を指すものである。 というのも、この思心所は、果報を成熟させるからであるが、それはすなわち、皆様がよくご存知の「応報を得る事」である。 思心所…

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 第一章 第七講 業縁と果報縁(その一) 業縁と果報縁 Kammapaccayo ti Kusalā kuslaṃ kammaṃ vipākānaṃ khandhānañca Katattāca rūpānaṃ kammapaccayena paccayo// 善また悪の因によって形成された果報名蘊、及び…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」3-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 《中部註》ーー《破除迷障》(Papañcasūdanī) 生物を殺害する事は、「殺生」(pāṇātipāta)である。 それはすなわち、生物を殺戮、殺害する事を言う。 「生物」とは、通俗的には、有情の事を言う; 勝義(=最も…

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》1-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (三)《基礎発趣論》紹介の範囲 《基礎発趣論》の法義は、非常に精彩豊かなものであるが、(+緬甸語から中国語訳の担当者の都合によって)全編を訳出する事ができない。 故に、《基礎発趣論》の「24縁」の内の…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」3-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 第三章 五戒、八戒と10戒の内容 ーーパーリ聖典の解釈 一、《正見経》の註釈 ーー離10不善の説明 「大名、已に殺生を離れ、已に不与取を離れ、欲邪行、虚妄語(+を離れ)、(已に)放逸の原因となる穀物酒、果実…

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》1-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (一)《基礎発趣論》について 1969年、マハー・ガンダーヨン長老膝下の弟子と居士の方々は、長老に《基礎発趣論》を開示してくれるように願ったが、その当時、時期尚早の為(+実現する事がなかった)。 長老の…

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》1-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 原書編者の序説によると、三種類の《発趣論》がある: (1)《広説発趣論》・・・仏陀がトウリ天で天衆に説いたもの; (2)《略説発趣論》・・・仏陀がシャーリプトラの為に《発趣論》の大綱を述べたもの。 (…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」2-22

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (問):「(āgamma、来る;・・・によって)という、この帰依によって、一切の苦を解脱する」という(+文言)において、この(文)と往趣が相い結合して、帰依の行いが成就する時、(それは一体)同一の使役動…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」2-21

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (問):そうであるならば、「この帰依は安穏である、この帰依は最上である」という言葉は、同一の使役動詞ではないのか? (答):(そのようでは)ない。 ここでは、その状況を(述べているに過ぎない)。ここ…

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》1-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> はじめに 一、《基礎発趣論》とは何か 《基礎発趣論》は、南伝の七部の論の中の、第七番目の《発趣論》(注1)を源としていて、それは、(+マハー・ガンダーヨン)長老が、巧みに《発趣論》と日常生活上の経験…

般若の独り言~翻訳の見通し

最近色々と、興味を感じたり、必要性を強く感じる仏教書を優先的に翻訳していて、「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」の翻訳が、後手・後手になってしまいました。 WEBにUPしたいという<菩提樹文庫>管理人様からの申し出もありますので…

般若の独り言~日本大乗仏教の問題点

私は、子供の頃より、仏教に多大な関心があり、長じてはタイ、緬甸の森林寺院にて、ダンマを学び、止・観の修行をしてまいりました。 子供心に、日本の大乗仏教を大いに不審に思っていましたが、その一つは《出家比丘が結婚して家庭を持つ》という、不思議な…

般若の独り言~福岡ダンマセンターとクムダ・セヤドー瞑想会

緬甸はヤンゴンにある、モービー僧院の住職様、クムダ・セヤドーが、無事、東京へ戻られたというご報告を、福岡ダンマ・センターから(メールにて)頂きました。 福岡ダンマ・センターで、セヤドーの瞑想会(糸島)が開かれるようになったのは、今年で二年目…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」2-20

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (所応行帰依の対象に関する説明) 所応行(gamanīya)(帰依の対象)という表現に対して、(反対者)は非難して以下のように言う: 「私は仏に帰依する(Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi)」という言い方は、仏陀に帰…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」2-19

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (雑染)ーー仏陀の諸徳に対して無智、懐疑、邪智を起す、及び不敬などを起して、己自身の帰依を雑染する事。ただし、諸々の聖者の帰依は、不破であり、雑染のない帰依である為、以下のように言う:「これは不可…