Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2018-07-01から1ヶ月間の記事一覧

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-5(75/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> あなた方の中に、至高で無上なる法を見ようとして、チャレンジした事のある人はいるのか? それとも、あなた方全員は、盲目的に座り、目をきつく閉じて、大きな口を開けて、法に対して、野獣のような叫び声を上げ…

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 五蘊は阿羅漢ではなく:阿羅漢は五蘊ではない。 五蘊は絶対的に、かつ一つの例外もなく、ただの世間的真実に過ぎない。 それに反して、清浄なる本性は、すでに完全にーー100%ーー世間的真実の、すべての痕跡から…

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> その結果、阿羅漢の、純粋で清浄なる心は、我々が知っている所の、通常の、汚れていて、不浄なる人体と比較する事は、できなくなる。 一人の人間が、己自ら、この真相を見たならば、たとえ、彼の目の前に仏がいた…

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> もう一つ、別の面について: 同一の時間において、共鳴と、強烈な生理的反応が生じて、身体が震える。 この震えは、故意であろうか? 違うのである。 それは、法が、煩悩を一撃に絶命しようとしていて、それに対…

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 阿羅漢の証し:阿羅漢はなぜ泣くのか? アチャン・マハー・ブーワ尊者2002年6月17日の開示 <私は>非常に正直にあなた方に言う: 私はすでに、二度と再び、過去も、現在も、未来も、経験しない。 というのも、私…

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-14

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> あれら、獰猛で牙をむき出しにして、己が勝者だと喧伝するものは、例外なくみな、敗者である。 その中に、正しい人間などいない。 というのも、喧嘩そのものが、すでに誤りなのであるから。 たとえば、二人のボク…

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-13

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 世俗的な角度から言うと、私はまさに勝ち残った英雄の如くに、法を開示しているが、しかし、実際は、私の心中における、至高で無上の法には、勇敢とか、畏怖とかというものは、存在しない。 それらには得も失もな…

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-12★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 徹底的に清浄なる心と比較するに、この世界は、一つの大きなゴミ箱であって、そこには、色々な異なったレベルのゴミが、放り込まれているのだ、と言える。 最高度の略聞即知者から、最低の、最も普遍的な文句為最…

般若の独り言~翻訳と修行の話

今翻訳している『阿羅漢向・阿羅漢果』は、残すところ10ページ、後三日ほどで、終了します。 次に Ledi sayadawの『Vipassanaハンドブック』を、翻訳します。 全部で85ページほどで、あまり時間はかからないと思います。 これが最後の翻訳になるかも知れませ…

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-11★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この時、私の心中に、予期せぬ失望が、沸き起こった。 私は思った: ”私はどうして、この法を他人に教え、指導する事ができるのか? 指導したとて、一体、どのような意義・意味があるのか? 真正なる法は、このよ…

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 次に、私は注意力を、私の過去生に転じて、視てみる事にした。 単純に、私がかつて、何度も生まれ、何度も死んでいると思うだけでも、恐ろしく感じるのに、私は多くの生において、地獄にいた事があり、多くの生に…

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-9

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <地獄の火より熱いものはない> 通常、五種類の最も重い罪があって、それは五つの地獄の火と相応する、と言われる。 その五種類の罪とは: 母親殺し、父親殺し、阿羅漢殺し、仏身から血を流させる事、サンガの和…

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-8★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> その時、私の全身は、震えた。 この出来事を説明するのは、非常に難しい。 一切は、同時に発生した: 天が崩れ落ちて、世界は消失した。 その後に、私は絶え間なく繰り返した: ”何が起こった? 仏世尊も、この様…

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-7★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 無明が、心から反転して転げ落ちる時、虚空は崩れ去り、宇宙全体は歪み、炸裂し、崩壊した。 現実的には、無明が我々をして、不断に輪廻世界に流転させるのであるが、それゆえに、無明が心の内から分離されて、消…

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-6

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 突然、これらの異なる状態ーー闇、光、楽と苦ーーが、すべて無我であると領悟した時、心は徹底的に、静止した。 明確に、<一切皆無我>の結論に、到達したのである。 それは二度と手品をする余地は、なくなった…

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-5(60/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 世俗諦のレベルでいうと、この状態は、必要不可欠な一部分でもある。 というのも、その他の、観察を必要とするものがない為、大念住と大智慧は、変化を生じている<点>に、直接、専注するからである。 この一瞬…

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この決定的な時が到来した時、時間と空間に関する事柄は、淡くなって行って、それとは完全に関係がなくなった。 出現したのは、心という、燦爛とした、自然な光明で、私はすでに、更に重ねて、観察に供する何もの…

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 究極的な危険が、その時、そこにあった。 究極的な危険な<点>とは、世間的実体の全体を創造する所の、光明の核心であった。 私は、永遠に忘れない。 あれは二月のことで、アチャン・マンの遺体が、荼毘に付され…

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この段階において、(+私の内に)何ものも残っていないが故に、私は、この無明の輝くばかりの光明に、感嘆してしまった。 あの光明には一つの焦点があり、それはちょうどガス燈のシェードのようで、シェードは光…

般若の独り言~心のケア

先ほど、ITを見ていましたら(般若精舎にTVが無い為)、広告の欄に「60歳からのシミ対策」として、何やら高級なクリームの販売のお知らせがありました。 60歳からシミ対策? 何のために? これから貴女は、恋愛しますか? 美しいおばぁちゃんになりたい? …

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 阿羅漢果:法の震撼の内に落涙する <2002年5月2日アチャン・マハー・ブーワ尊者89歳の開示> <死>の真相は、まさに、心の中に存在する。 死と生は、皆、ここにおいて、ある。 心自身には、生もなければ、死も…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-51

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 真正なる無明の内側には、多くの、殊勝で神奇なものの焦点が隠されているーー我々が想像もできないものが。 これら、人をして汚染されうる要素は、ちょうど、少量でも十分に動物を殺す事のできる、毒餌と同じであ…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-50

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 一切は自我を隠匿している事、自我の存在は本質的な表現である事、これらは皆、無明の作用による。 これら表現の存在は、真正なる無明がいまだ原住所から一歩たりとも、動かない事を意味する。 (+我々が実践す…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-49★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 空(クウ。以下記載のないものは同様)のレベルにおいては、色々な、異なった体験が許される。 サマーディは、その内の、一つのレベルである。 高く深いサマーディの中で、身体と思惟心は、暫定的に、覚知の中か…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-48(50/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <心の観察の終り> このレベルに到達すると、心は永遠に、生と有を切断し、徹底的に、一切の無明と貪愛の顕現を、切断する。 ”無明の縁によりて行あり”ーー根本的な無知が、有為の生起を形成するーーそのような…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-47

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> それの本性が、はっきりと、明確に知られるまで、鋭利で、直接的な智慧によって観察すれば、この現象は、完全に予期していなかった方式でもって分解され、崩壊する。 この時の開悟は、”菩提樹下の証悟” または ”…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-46

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 一切の世間的真実ーーどれ程に精緻で、またはどれ程光明で、宏く偉大に見えてもーそれは不可避的に、一種の、不規則的な兆候を、顕現する。 これら(+の存在)は、心をして、注意を向けさせしめ、回答を探し求め…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-45

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 真正なる無明は、我々の想像しているものと、非常に異なる。 故に、あなたが無明に遭遇する時、それが無明である事が分からない。 そして、あなたの修行は、そこで行き詰まってしまう。 もし、指導者がいて、あな…

般若の独り言~手抜きヤムウンセン

昨日は、タイの名物料理<ソムタム>を作りました。 パパイヤの青い実が手に入らないので、その代替えとして、ニンジンを使いました(キュウリでもOKです)。 今日は<ヤム・ウンセン>に挑戦です、ただし手抜きの、です。 昨日のソムタムの材料から、ニン…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-44

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この種の憂慮が齎す負担を解除するため、また、この問題に関する円満な回答を得るために、あなたは、己自身に問うべきだ: この光明は一体何なのか? あなたの注意力を、あなたがよく理解できるまで、この上に専…