Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2018-07-01から1ヶ月間の記事一覧

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-43

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この光明は、各種の煩悩が聚集して形成されたものであり、明晰・明確に認知される光明点である。 それはひとつの、非常に精緻・繊細な光明であって、心の内の特定の一点に集合する。 ひとつの、相応する所の、精…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-42(45/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 今、心は、繰り返し、かつ不断に、休むことなく諸蘊を観察する時、それは純粋に、成熟してくる。 智慧によって、思惟を分別する事を通して、我々はまず、色蘊を捨棄することができる。 初期段階での観察において…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-41

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <総体的に、念頭(=考え、発想)と想像の源泉は>行蘊と呼ばれる。 一つひとつの念頭、一つひとつの考えは、心の中において、非常に短い時間、波動して(=揺らいで)、その後、消失する。 これらの心理的な波…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-40

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 注意しなければならないのは、心をば、智慧の修行の道の上で、狂ったように走らせて、休ませないなどという事がないようにするべきである。 過度の観察は、一種の集(samudaya)であって、心の中に浸透し、それが…

般若の独り言~タイのソムタム

暑いですね。 今日の昼食、何にしましょうか? ご飯は炊いても残してしまって、今の時期は、結局、半分くらい捨ててしまう事が多い(一カップ炊くと、食べきるのに3日くらいかかる。白飯を冷凍するのは嫌なので、結局傷めてしまう。)。 白飯よりうどんがい…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-39

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 観察における密集性(=途切れない事)から、心は脆弱になり、多くの時間、緊張する仕事を続けていたために、それは、遅鈍になり、緩慢にならざるを得ない。 この種の状況が発生する時、休息が必要だ。 この段階…

般若の独り言~翻訳の醍醐味

これまで、どれほど中国語の仏教書を日本語に翻訳したでしょうか。<菩提樹文庫>に収録されたもの、収録されていないものを含め、結構な冊数になると思います。 きっかけは、20世紀の終わりに、パオ・セヤドーの『智慧之光』(中国語版)に出会った事。 あ…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-38

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 心の中において、想(saññā)と行(sankhāra)は、無明の主要な媒体である。 阿那含(+を証得した後)において、身念住を修行する後続の段階から、この自我の心理的構成は、中心的な位置を占めるようになる。 自…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-37(40/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 全身に遍布・浸透する意識流は、それ自身の所へ退くようにして戻って行き、かつ、聚集して、高くて深いサマーディに入る。 この道理は明晰・明確に、見て取ることができる。 その時、躯体全体は、ただ一塊の物体…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-36

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <総括してみるに・・・> 欲貪の心に対する束縛が切断されたならば、すなわち、阿那含を証した事になる。 引き続き、阿那含は継続して、この成果を齎した所の観察の技巧を練習して、更に深く分け入り、これを拡…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-35

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 念住と智慧は、慣性(=習慣)となるーーそれらは、非凡な速度と巧みな協調性をもって、運用される。 この観察が頂点に達した時、身体の影像・イメージは、出現するや否や、消失するようになる。 これらの影像・…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-34

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この段階において、外部にある全面的認識と、心自身の内部にある映像・イメージは融合する。 我々は以下のように言うことができる: 少なくともすでに、欲望への観察は、50パーセントは完成していて、修行は、す…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-33

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <この説明を導きとして> 私のこれらの説明は、前方にある道筋を指し示しているのであって、一言一句聞き漏らさずに暗記する為の、授業をしている訳ではない。 私はこれまで、私の体験を具体的に説明するのを好…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-32(35/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 最後に、智慧による、身体の不浄の本質的核心への洞察が、最大限純粋に熟した時、あなたは人をして嫌悪させる所の肉、骨を目の前に並べて、自問しなければならない: この人をして嫌悪せしめる感覚は、一体どこか…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-31

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 身念住における禅修が、理性と成績(=成果)の二者と智慧とが、完全に結合する段階に入った時、禅者は、実に不思議な事に、昼夜止まる事無く、完全に、身体の観察に浸透する。 智慧は、ある種の速度と巧みさをも…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-30

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <身体を思惟することの重要性> 我々の主要な欲望は、みな身体と関連・結合している。 我々の周辺を、見まわしてみよう。 我々は、性欲をしっかりと掴み、人体をば、狂ったかのように貪恋する世界を、見ることが…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-29

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 身体が分解されて、本来の元素に戻る時、腐乱する自然な過程を観察する。 腐乱と分解は、有機的な一切の生命の、自然な過程であり、あらゆるものは、それらを構成する所の元素に戻るが、最後には、その元素もまた…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-28

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 修行する時、一回また一回と、各種の智慧を利用し尽くして、智慧が想定できる所のものを透視し、あなたが全面的に、身念住の法門における、想像出来うる限りの、各種の方面を掌握し、身体の本質を不断に探索する…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-27(30/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <もし、正しく修行するならば・・・> 身念住は非常に猛烈で、心のエネルギーは、非常に消耗する。 故に、徐々に、心は疲れはじめる。 この時は、休憩のときが来たのである。 専ら身念住の修行を実践する修行者…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-26

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 全身全霊でもって、真正に、あなたの注意力を引き寄せ、あなたに真実を感じ取らせる所の部位に対して、それらをば、あなたの智慧を磨く砥石とする事。 それらの真相を明らかにし、それらにメスを入れて、人をして…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-25

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 智慧の修行は、身体から入るーー己自身の身分(=身体を部位ごとに分けたもの。以下同様)の最も粗いものと、鮮明なもののグループから、始める。 このようにする目的は、実相の真正なる本質を見通すためである。…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-24

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <サマーディが如何に深く、また長時間保てたとしても・・・> それ自体は、最終目的には、なりえない。 サマーディは、すべての煩悩を、滅し尽くすことはできないが、しかしそれは、理想的な一つの、プラットホ…

般若の独り言~今日の収穫カサブランカ

朝起きて、すぐに庭仕事をすればよいのですが、どうも翻訳が好きで、朝の瞑想が終わると、すぐ、PCの前に、直行してしまいます(苦笑)。 翻訳をすませて、先ほど庭に出て見ましたが、もうすでに暑い。仕方なく、きゅうり、とまと、なす等少々収穫して、急ぎ…

般若の独り言~アチャン・マハー・ブーワの能知

現在、『阿羅漢向・阿羅漢果』の翻訳は、27ページまで 来ました。全部で100頁ありますので、1/3 辺りですね。 アチャン・マハー・ブーワの『阿羅漢向・阿羅漢果』を 翻訳していて「ああ、やっぱり」と安堵しました。 五蘊は己のものではない、と仏陀は言いま…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-23

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> これは、念住と智慧を密集させ、応用する事によって証得する事のできたレベル(+の体験)であり、この段階では、智慧によってサマーディを育成する。 また、心が全面的に、一つひとつの側面に関して、徹底的に知…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-22

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 心が、この顕著な特徴に、深々と覚醒した時、疼痛は徐々に消失する。 同時に、我々は、疼痛の体験及び、それに執着する所の ”私”、その両者の根本的な関係性に対して、覚醒する事となる。 この関係は、心の内部に…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-21

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 例を挙げてみよう。 膝頭または筋肉に怪我をしても、膝頭または筋肉はただ骨、靭帯と肉に過ぎず、それらは疼痛自体ではない。 両者は共にあるけれども、それらはただ各々の特性を、保持しているだけである。 心は…

般若の独り言~コーチはタイの一休さん?

タイ・チェンライの洞窟に閉じ込められた少年12人とコーチの全員が救出されたのは、本当に喜ばしいことでした(犠牲になったクナンさんに哀悼の意を表します)。 先ほど、IT 上で、彼らの会見の様子を見ました。 サッカーボールを蹴りながら登場して、健康を…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-20

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <仏世尊は我々に教えられた> 仏世尊の教えられた、観察の目的とは何か? すべての疼痛は、生起して、非常に短い時間留まって後、滅し去るという現象を、よく見る様にと教えたのである。 その中に分け入って、干…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-19

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 受蘊に関しては、それらは、それら自身の領域に存在しており、それらは、物質的身体の一部分ではない。 身体と同様に、それらは感受ではなく、身体の疼痛の中において、それが直接作用する事はない。 この二つの…