Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2017-04-01から1ヶ月間の記事一覧

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-36

念は、気づきの善法であり、それは我々をして、不善な法から遠ざけることができる。 実際は、仏法を知らない人であっても、善業をなすことはできるが、しかし、仏法によれば、人々は更に正確に何が善で、何が悪であるかを知ることができる。 善き法友と親し…

是誰庵のひとやすみ~母の子宮へ帰る時

本日のブログに<随所に主となる>のお題で、文章を書きました。 その中で<無分別知>について書いていて、ふと思いついたのですが・・・。 私が長年通っていたタイの森林寺院(アーチャン・チャーの分院)は、山の奥にあり、寺院の立っているその先は、ド…

是誰庵のひとやすみ~随所に主となる

先日、ある方のブログ(テーラワーダ仏教系)を読んでいて、禅宗への批判的な意見をみつけました。う~~ん、ちょっと違うな、と思ったので、反論を、ここに書きます。 彼は、禅宗で言われる「随所に主となる」というフレーズを、<仏陀は無我(私はいない)…

是誰庵のひとやすみ~怒ってはいけない本

世の中には『怒ってはいけない』と題された本が、たくさん出版されています。 私は、意識的に、そのどれをも、読むことはしません。 読んでいないので、内容の良しあしは分かりませんし、本についての批判をしているわけではありませんが、どんなに良い本で…

是誰庵のひとやすみ~テーラワーダ仏教は正しいか?

先日、法友と雑談をしていまして、「テーラワーダ仏教は正しいか?」という事が少し、話題になりました。 しかし、これがなかなか「テーラワーダは正しいゾ!(テーラワーダだけが正しい)」と断言ができないのですね、私には。 まず、パーリ語経典は、古い…

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-32

下記は、一般的な検査基準である: 定の種類(定から出た後の結果): ★正定の場合(心は五蓋から遠離している) 1、心内は平和で、静かである。 2、身体において体力、活力を回復している。 3、心は清らかで、鋭敏である。 4、外部の要因に干渉を受けたり、…

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-35

念の特徴は、不動揺(=動揺しない事)で、言い換えれば、目標(たとえば、安般禅相または究極法)に対して、それを見失わない、という事でもある。 論師の解説では、念とは、心を目標に安定させることであり、それはちょうど、石が水の中に沈んでいくような…

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-34

8-6-2-3 念(sati) 「念」(sati)という、この文字の、語根の意味は、「憶念」である。 しかし、心所(+の働き)としては、それは、留意する、目標に対して気づく、ということになる。 我々が布施(dāna)、持戒(sīla)と禅の修行(bhāvanā)に尽力する…

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-31

正定と邪定の見分け方 正定と邪定を見分けるには、瞑想・静坐の後に得られる結果から、判断することができる。 何ほどかの時間をかけて、順序良く訓練された後、あなたは、ある程度の定を、経験することができるようになった。 この時、以下の事に注意を払わ…

是誰庵のひとやすみ~天使の目

毎日の日課で、昨日も、温泉プールに行きました(水中運動の為)。 一時間ほどで運動は終わり、普段着に着替えて、帰ろうとしていた時。 4月に小学一年生になったばかりの女の子が、こういいました。 女の子「おばちゃん、頭、坊主だけど、お坊さんなの?」 …

是誰庵のひとやすみ~他山の石

日本伝来の、または中国から伝わった諺で、その意味が、本来のものと変わってしまったものが、ままあります。 表題の「他山の石」もそうです。 日本では「他山の石」は、嫌な人に出会った時、「ああいう人には、なりたくないものよ」という、反面教師的な意…

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-33

精進の近因(=直接原因)は、怖れの心または精進事 (=精進そのもの)である。 生・老と死は、我々をして、最終的に生死輪廻から解脱できるような正見を、急ぎ育成させるよう促すことができる。 我々が、出入息、または安般禅相、または究極法に対して、正…

是誰庵のひとやすみ~水泳と登山

さぁ、四月です。 桜が咲くと、色々なことがしたくなります。 私は、今年は、水泳と登山(里山歩き)です。 私は毎日、水中運動用の温泉プールで、歩行運動をしているのですが、水深が浅いなりに、泳いでいる人がいて・・・それ、ちょっとうらやましかったの…

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-30

善くて巧みな、定の修習における過程もまた、この通りである:先に、修行者本人に決意と自律心が必要である。というのも、そうであれば、修行が理想的に進まなくても、引き続き修行に取り組むことができるから。 指導者で言えば、修行者に(+修行の)方法を…

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-29

ちょうど水泳を学ぶときのように、体系と善くて巧みな方法(=方便)を、学ばなくてはならない。 通常、水泳を学びたいとやってくる人は、すでに一定程度の決意と自律心を備えているものである。 故に、指導者の主要な任務は、まず、生徒に水を怖がらないよ…

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-28

五蓋から離れる事より外に、我々は常に、以下の事に注意を払わなければならない: それはすなわち、我々の修行は、必ず愉快、喜悦、軽安、楽しさに満ちたものでなければならない、という事。 というのも、これらの要素があるとき、我々は正定を成就すること…

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-27

これらの因の中で、最も基本的なものは、心の中に五蓋があるか、ないかである。 五蓋があるとき、邪定が生じる; 五蓋がないとき、正定が生じる。 ≪中部・第108牧者目連経≫の中で、婆羅門が問う: 「世尊は、あらゆるジャーナ(定)を称賛するのでしょうか?…

是誰庵のひとやすみ~卵を温める

精神世界の事柄は、分からない事は分からないままに置いておき、分かるまで、心の中で温めた方がいい場合が、とても多い。 先日も、20 年来の疑問が一つ、イヤ、合計で3つ、解けました。 一つ目は、ラべリングの時に使う言葉への疑問。 今まで、(某仏教協会…

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-26

上述の経文に基づいて、我々は「定」の因を、下記のように、総括することができる。 正定が果である時の、その因。 1、心は五蓋から解脱している。 たとえば、他人を利益したいという清浄なる動機から修行するとき; 放下(=手放す)の精神で修行する時。 …

是誰庵のひとやすみ~「顕正法蔵」翻訳再開の弁

しばらく「顕正法蔵」「目の中の塵」の翻訳を休んでいました。 「掌中の葉」に、重要な命題が紹介されていましたので、その部分を翻訳するのを優先していた、からです。 それは何かというと「正定とは何か?」「邪定とは何か?」という命題です。 もう 20 年…