Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2017-11-01から1ヶ月間の記事一覧

「身念処」1-56

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 図1-3 四種類の実相(実相の、更に詳しい細目は図2-2参照の事)。 (原文では、★~★は、表になっていますが、hatenaでは表を作成できませんので、箇条書きとします。 ★四種類の実相 1、色法(無知で無覚知)。 …

「身念処」1-55

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 実相とは、我々が(+上述した所の)座っている色身である。 座っている色身は、無知であり、無自覚である。そして、心が所縁(座っている色身)を認識するが、心もまた実相である。 世間には二種類の実相しかな…

★マハーカルナー禅師への質問状(最終版)11月20日加筆あり←11月21日禅師にメールにて通知しました。

過日、パオ森林寺院出身のマハーカルナー禅師にパーラージカ(四大戒律違反/淫、盗、妄、殺)の疑いが出て、彼を支えていた<マハーカルナー法友会>は解散、WEBが閉鎖されました(11月2日付)。サンガ出版は、禅師に関する各種の活動告知をすべて、抹消し…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-121

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> まさに、この男性が、二股の枝で、その蛇を捉まえようとする時、心の中で思う: 「私はどのようにすれば、彼を害さないで、また、私が彼に、咬まれないという状況の下で、彼を取り除く事ができるか?」 この時、…

是誰庵のひとやすみ~黄梅が熟した

中国は、魏や唐の時代、禅宗が勃興しました。 多くの人が、禅寺の門を叩き、禅の修行をしました。 それまでの中国仏教は、理論を勉強し(主に華厳経)、その会得した知識を競うものであったのですが、(達磨禅師のご努力により)仏法とは、修行して悟りを得…

是誰庵のひとやすみ~傲慢な仏教徒

ゴータマ仏陀の教えた仏法は、大変な価値を持っていると思います。 一たび四聖諦を知り(本当にその本質を知るには、修行しなければなりませんが)、八聖道を実践していくと、なんだか未来が明るくなったような気がします。 しかし、だからと言って、他の宗…

是誰庵のひとやすみ~自知冷暖

2600年前、ゴータマ仏陀ご在世の時代、仏陀は各地へ行脚、説法をされたように、仏典では紹介されています。 でも、大昔、便利な交通機関もなかった頃、一生に一度しか、仏陀に会えなかった人々も、多くいた事でしょう。 彼らは、修行をどのようにしたのでし…

「身念処」1-54

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <今・ここ>には二種類ある: <今・ここの思慧>と、<今・ここの修慧>である。 <今・ここの思慧>は、一般的な修行が良好な状況であって、<今・ここの思慧>を先導者として初めて、<今・ここの修慧(実相般…

「身念処」1-53

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-6 <今・ここ>と実相 <今・ここ>は、以下のように定義する事ができる: 1)心・身の実相が顕現し、かつ、我々の貪欲とは相応しない、暫くの時間。 2)三心(明覚):すなわち、精進、正念、正知でもって心…

「身念処」1-52

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-5-2-1 刹那定(瞬間定) Vipassana の修行をする時、我々は、刹那定を利用しなければならないが、その理由は、刹那定は、いまだ六根の内にあるからである。 所縁を変える時、たとえば:座っている色身から、心…

「身念処」1-51

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-5-2 定 定の意味とは、専注、または専注の結果、であるが、近年来の理念の中では、ある種の教師は「不散乱」という、この種の、比較的広義の定義を使う場合もある。 定は、vipassanaの修行にとって有用であるが…

「身念処」1-50

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-5-1 三種類の修行の智慧(世間的智慧とは異なる智慧) 1)聞慧(注1)(文字般若): 修行する前、理論によって知ること、または経や法を聞き、討論を通して、得る知識。 2)思慧(注1)(観照般若): 修…

「身念処」1-49

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この真理とはすなわち、心身は、無常・苦・無我であることを知ることであり、そして、心身の三法印を照見する智慧は、実相般若と呼ばれるが、実相般若は煩悩を断じ除くことができる。 Vipassana慧地は、理論であ…

是誰庵のひとやすみ~パーリ語オタク

戦後の日本の仏教界、僧侶が頼りないので、みなさん困っていた所へ、世界は、原始仏教(根本仏教、パーリ仏教、テーラワーダ仏教)が大流行り・・・ベトナム戦争でタイに駐屯していたアメリカ兵が、休暇に母国に戻らず、タイのお寺に行って修行し、その後、…

是誰庵のひとやすみ~マハーカルナー法友会・活動無期限中止について

先日、自宅(庵)で、インターネットを見ていると、南伝仏教の出家比丘であるマハーカルナー禅師を支える為に設立された<マハーカルナー法友会>の活動が、(11月2日をもって)無期限停止となりました、との告知が、WEB上にありました。 私は去年の12月に、…

是誰庵のひとやすみ~仏教徒の矜持

日課である、仏教書の翻訳に使う、私のパソコンの端っこに、中国語の、こんな栞が、貼ってあります。 ★★★ 勇敢直覚的対面(己の為した諸々の行為に関して、目を見開いて、勇敢に直視しましょう) 用心誠意的接受(批判を受けたら、謙虚・誠実に拝受しましょ…

「身念処」1-48

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> a)六組の vipassana慧地(Vipassana Bhumi)(基礎的知識)。 b)16階智。 c)7清浄。 Vipassana慧地は、vipassanaを修行する時、実相般若を生起させる為に我々が観照しなければならない所縁であり、その六つの…

「身念処」1-47

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-5 Vipassana(ヴィパッサナ) Vipassana(注1)は、修行者を苦の滅へと導く、唯一の修法である。 苦の滅は、仏法の最終的な目標であり、故に、修行者は、vipassana 修法とは何か、をよく理解しなければならない…

「身念処」1-46

< Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-4-8 四聖諦を体験・証悟する般若の智慧 1)苦を体験・証悟する智慧は、顛倒妄想を破り、除く事ができる。(顛倒妄想ーーすなわち、「心身は常であると妄執する」 など等。) 2)集を体験・証悟する智慧は、…

「身念処」1-45(40/203)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-4-7 道諦(第四聖諦) 道諦は、苦の滅へと、導き至る事のできる八聖道の事で、「Magga」は、道という意味である。 それは、涅槃へ通じる道であり、涅槃は、苦痛を滅し除く法(=方法)である。 八聖道を奉じる…

「身念処」1-44

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> もし、貪愛が完全に断じ除かれたならば、円満なる涅槃に到達し、阿羅漢果を得る事ができる。 もし、修行者が、貪愛の害を体験・体得できないのであれば、彼は涅槃ーーこれによって、苦を滅するーーに到達する事は…

「身念処」1-43

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-4-6 滅諦(第三聖諦) 涅槃は苦の止息(=止まる事)または、息滅(=消える事)であり、泥洹と涅槃は同じものである。 涅槃は、煩悩と苦痛を断じ除く法(=方法)である。 上記の事は、苦因ーー集(または三種…