Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2017-10-01から1ヶ月間の記事一覧

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)6-5

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 我們生下来従孩童到長大成人 (我々は、生まれてこの方、幼少の頃から成人するまで) 都依頼父母和師長。 (いつも、父母や教師を頼りとした) 我們能有今日都是由于他們的撫育、 (我々が今日あるのは、彼らの養…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)6‐4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> とは言うものの、メーチ・ケーウは、教学に関して、善くて巧みな方便に、欠けていた。 畢竟、彼女は一人の純朴な、教育を受けた事のない、田舎の女性であった。 彼女は口下手で、自分の考えを述べる事も、上手で…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)6-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> メーチ・ケーウは、生まれつき、世を憂うタイプの人間であったーー深く、同胞の、心霊的な人生の結末を憐れんだ。 今、彼女の心は、無上なる法の実相を証得して、人類の一切の概念を超越したが、しかし、どのよう…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)6-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 続けて何日間も、メーチ・ケーウは、証悟した所の本性に、沈潜していた。 彼女が、以前非常に愛惜していた光明心は、相対的に、今となっては、粗野で狭量なもので、両者の違いは、黄金と牛糞のように、思えた。 …

是誰庵のひとやすみ~真我と涅槃

メーチ・ケーウ、悟りましたね、涅槃を! 原文で、P198の所で(笑)。 ほっとしました! メーチ・ケーウが涅槃を悟る場面の、その前後の辺りを翻訳していて、<真我無明>という言葉に出会いました。 真我というのは心が「私は真我である」と思っている以上…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)6-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 第四章 清浄ーー円満果証 有人説要証涅槃、 (涅槃を証したいと思い) 于是伸長頸項望向天上広闊的虚空。 (首を伸ばして、空の上の、広い虚空を望む) 他們没有意識到不管多麽用功望多麽遠、 (彼らは、どのよう…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-40(200/244)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ”身体、心と本性は、 明確な実相でもあり、 また分離された、 別々の実相でもある。 あらゆるもの一切は、 必ずや所知(=知られるもの) であるーー 地水火風; 色受想行識; 声色香味触と感情; 貪瞋と痴ーー …

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-39

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> その夜、女性専門道場に戻って来ると、メーチ・ケーウは、光明心がなぜ、彼女の唯一の、恋々とした執着になるのか、その事を考えた。 彼女は、この一粒の心を非常に愛惜し、それが干渉を受けないように、保護した…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-38

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ”試しに想像してみて欲しいのだが、あなたが、空っぽの部屋の中にいるとして、あなたは、周囲を見まわして、空っぽで、なにも無い・・・絶対に、何等のものも、空間を占拠していない、と言うーーその部屋の真ん中…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-37

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ”空、光明、清らかさと明晰さ、楽しさは、皆、光明心における、微細な有為法である。 もし、あなたが、子細に空を観察し、持続的に注意したならば、あなたは、それが、実は、真正には、始終一如ではない事に、気…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-36

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ”この光明空と、涅槃の清浄空を、同じものだと、誤解してはならない。 両者は、天と地ほどに、異なっている。 光明心とは、不断に輪廻する元来の心を含有しており、それは、純一で清浄に満ちているという事はなく…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-35

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ”あなたは、心理現象を、それらを徹底的に超越する程に、観察した。残余の意識の汚染は、光を放つ所の、覚知の核心に戻り、心が自然に放光する所の、本性と合流する。 この光明は、かくも壮観で、かくも人を魅了…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-34

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 一瞬間的内観清晰地洞見無明、 (一瞬の内観は、明晰に無明を洞察する) 令我們対這一純大苦聚集的執着厭倦、 (それは、我々をして、この一つの、大いなる苦が 聚する所の執着を厭い、倦むようにせしめる) 不再…

是誰庵のひとやすみ~いよいよ涅槃?

今、毎日、「メーチ・ケーウの物語」を翻訳していますが、いよいよ佳境に入って参りました! 今日は、興に任せて、随分の量を、翻訳したようです。 きちんと数えてはいませんが・・・。 私は子供のころから仏教が好きでしたが、基本、独学です・・・仏教系大…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-33

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> メーチ・ケーウの禅修行は、無量劫より生死輪廻を支配して来た、心理上のパターンを打ち壊した。 この時、何ら一つの念頭(=想い、発想)さえも飛び出して来る事はなく、またそれが、形成される事もなかった。 …

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-32

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> メーチ・ケーウは、心には形相(=姿かたち)がない事、また、概念を構築することもない事に、覚醒した。 清らかで明晰な覚知を自在に運用して、現象を観察する事を通して、彼女は、概念や思惟から解脱ーー抜け出…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-31

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 心正常的状態是清浄的、 (心が正常である時、それは清らかである) 心受到外塵汚染才不浄、 (心が外部の塵埃に染まる時、それは不浄となり) 引起傷悲快楽等情緒波動、 (悲しみや楽しみ等の感情の波動が生じ)…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-31

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 影像の生起と消滅は非常に速く、故に、外部の、または内部の概念とは、相関する事がなかった。 最後には、形相(=姿かたち)は、意識の中において、閃きながら生・滅したが、その速さは、映像の意味を識別する事…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-30(185/244)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> メーチ・ケーウの観身の修行は、非常に重要な段階に、差し掛かった。 この折り返し点において、心が色身に執着する、その根本的原因は、非常にはっきりとしていた。 嫌悪の本能の感受が、それとの根源において合…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-29

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> メーチ・ケーウは、自在に運用される心態(=心の状態)と、執着を離れた心態でもって、専注する時には、身体をば、内心に顕現する、意識の産物である、と見做した。 しかしもし、色身がただ四大の聚合したもの、…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-28

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> メーチ・ケーウは岸辺にいて、その光景に見入っていたが、突然、身体が一片の雲のようになって、空中に舞いあがり、湖面を漂い、あの鴨の上方まで、漂いついた。 彼女は、足を広げて、鴨の背中に跨った。 彼女が…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-27

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 経行道の傍には、天を突く大木と、湾曲して垂れ下がった竹によって陰が作られていた。道の端には、細長いトウトチノキがあり、メーチ・ケーウはこの木の下に、簡素な竹のプラットフォーム(=縁台)を置き、午後…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-26

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 池水完全停止、 (水の流れが、完全に停止する時) 清澈見底的池塘、 (池塘の底が、徹底的に澄んで見える) 我們可以清楚看見所有的東西。 (その時、我々は、すべてのものを、はっきりと、見て取る事ができる)…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-25

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> メーチ・ケーウは、毎回、身体を観ずる度に、形象が、地水火風に分解される真迫の様を、見た。 彼女は、死なないものは無い事を、はっきりと知った。 頭髪、爪、皮膚、肉、骨は、夫々、彼らの元の元素に戻り、た…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-24

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> メーチ・ケーウは、真迫の画面を見た: 骨と地大は融合し、両者は合併して一つとなり、同じ一つの元素となった。 最後の残余の骨が、それ本来の元素の状態に戻った時、彼女は、深々と、身体には実質が無いという…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-23

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> メーチ・ケーウは、毎日、かくの如くに、禅の修行をした。 一回また一回と、何度も重複して、内部の死体に専注した。 その結果、死亡の相と敗壊(=壊滅する事)の相が、慣性的・習慣的思惟になるまで薫陶され、…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-22

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> その日の深夜、メーチ・ケーウは、サマーディの深い定から出て、意識流がゆっくりと、身体の各部分に際限なく散らばるのを感じ、それと同時に、最後には、身体全体を感知するのを、体験した。 この時の彼女の覚知…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-21

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 今、アチャン・マハブーワが、いきなり介入して来て、その一切を変えた。 彼女の意識は中心に集まり、心性と合一し、完全に、純潔な覚知の微妙な本性と一体化し、その全体が、甚だ深い寂静の中に、息づいた。 こ…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-20

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 心専注仏法、 (心が仏法に専注する時) 初歩的内観是看到執着色身体引起的苦。 (その初歩的な内観は、身体に執着する事によって 引き起こされる苦を、見る事である。) 那些看清楚色身的人、 (身体の本質によ…

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-19

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 心が、周縁の取り巻き的な思想(=考え)と感情に干渉されないでいれば、完全に、心の知覚の領域に専注する事ができ、憶測や想像の影響を受けず、知覚の領域の中で生起した現象を、真実に基づいて、観察する事がで…