2019-01-01から1ヶ月間の記事一覧
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 『仏教徒信仰的是什麼』から抜粋翻訳 (P24) 原始の仏教の教義の中においては、「他人を度する」という様な言い方は、存在しない。 仏陀が推薦した方法とは: 仏陀の教えを通して、煩悩を断じ除き、精進、努力し…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 『仏教徒信仰的是什麼』より抜粋翻訳 (P24) 《阿羅漢道を通して世の人々を度する》 阿羅漢道を通して、涅槃を証悟する事は、利己的な行為ではない。 ある種の仏教徒は、以下の様に言う: 己自身の解脱を修して…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 転向と省察の二者は、同じ「意門心路過程」(manodvāravīthi)の中において出現する。 転向とは、「意門転向心」(manodvārāvajjana)によって運用され、尋などの、五禅支の中の一つを、目標とする; 省察とはす…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> その後、あなたは、初禅の五自在を練習するべきである。すなわち: 1、転向自在(āvajjana vasī): 出定の後、諸禅支を、観察する事ができる。 2、入定自在(samāpajjana vasī): どの様な時間においても、心の…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> もしあなたが、心をして平静に、安般似相を、一時間または二時間、または、それ以上の時間、専注せしめることができるならば、この時の禅相の光は、非常に明るいものになる。 禅修の心によって、その光は、身体の…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ジャーナの修習を始めたばかりであれば、あなたは、長時間ジャーナに安住できる様、練習するべきであり、余り長い時間を、禅支の省察に使ってはならない。 熟練すれば、あなた同時に、五つの禅支を、省察すること…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 五禅支: 1、尋(vitakka):心をして似相に投入せしめる。 2、伺(vicāra):心をして継続的に似相に投入せしめる。 3、喜(pīti):似相を好む。 4、楽(sukha):似相を体験している時に受ける楽または楽しさ…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> もし、精進(+の力)が減退する時、あなたの心は、禅修行の目標(似相)から遠く離れてしまう。 実際、(+この様な時は)あなたは軽安、定と捨という、この三種類の覚支を修習してはならず、択法、精進と喜覚支…
先日、台湾の<法雨道場>の facebook を見ていて、 大変に驚きました。 台北汐止の精舎にお住まいの釈果道師が亡くなり、法雨道場の僧侶方が、弔問に上がった、というのです。 3、4年前でしたか、師の慈善精舎に行けば、テーラワーダ関連の中国語の仏教書…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 《七覚支のバランス》 止禅において、ジャーナを獲得するためには、七覚支をバランスする事は、非常に重要である。 1、念覚支:正念。また、不断に継続的に、似相を覚照する事。 2、択法覚支:似相を知見する事…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (15/520) 定と慧がバランスする時初めて、世間禅(注7) (lokiya-jhāna)は生起することができる。 仏陀は定と慧は、並行して修習するべきであると指導している。 というのも、出世間禅(注8)(lokuttara-jhā…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 止を修習したい禅修行者にとって、堅固な信心(=確信)は、非常に重要である。 もし、人が「似相によって定の修習をするならば、私は必ずや、安止定を獲得することができるに違いない」と考え、その後、信根の力…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> もし、精進根が強すぎるなら、信、念、定、慧の諸根は、勝解、建立、不散乱と知見の作用を実行することができない。 この強すぎる精進は、心をして、似相に、静かに専注せしめることができなくさせ、七覚支の軽安…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 反対に、もし、(+修行者が)信じている事柄(例えば:安般念)を、過剰に強く信じすぎている時、信根の勝解(=事柄への解釈、理解)の作用が強すぎて、慧根が不鮮明になり、精進、念及び定根の力もまた同時に…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 例えば、誰かが、以下の様に思うとする: 「息を観ているだけで、本当に、ジャーナを証得することが出来るのだろうか?」 または: 「禅相は、綿花の様相を呈する時は、取相と言い、氷の様に透明な時は、似相とい…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 《五根のバランス》 五根とは、心を調伏し、心をして、正道から離れない様に、定、慧及び涅槃に向かわせる様にする所の、五種類の力の事を言う。 五根のうち、信とは、三宝があること、業とその報いがあることを…
先日、大阪の大姉にメールをして、「二月に台湾に修行に行くよ」と話しました。 姉は「修行やら、観光やら・・・いいわねぇ。楽しんで来てね」と言う。 こういう時、私は少しモヤモヤする。 私は、台湾では、観光はほとんどしない(若い時に、中国語通訳をし…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この段階において、(+修行者は)「近行定」または「安止定」に到達したのだ、と言える。 近行定とは、ジャーナに証入する前の定である; 安止定はすなわち、ジャーナの定である。 この二種類の定は、みな「似相…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この様に努力する時、それは、益々白くなっていく。 それが、綿花の様な白さになった時、それは「取相」である。 あなたは決心して、心を平静に保ちながら、白色を呈する「取相」に、一時間、二時間、三時間また…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (+修行が)この段階まで到達した時、あなたは禅相を弄んだり、また、故意にその形状を変化させたりしてはならないし、それを消失させてもいけない。 この事に注意する以外、あなたは、禅相の色彩に注意を払って…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> もし、禅相が息の接触点において出現し、かつ安定しているならば、その時、当該の禅相は息の様でもあり、息が禅相でもある様な状況を呈する様になり、また心は、非常に自然に、それと強く結ばれるが、その様な時…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> もし、禅相が、あなたの眼前より遠くに出現する時、それに注意を払ってはならない。 というのも、それは、消失する可能性が存在するし、また修行者が、この様に修行するならば、安止定(appanā samādhi)に到達す…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 禅相は「想い」から生じる。 禅相の出現する以前、それぞれの禅修行者には、それぞれ異なる想があるため、修行者毎に、異なる禅相が生じるのである。 禅修行者が修習している所の業処は、全員が安般念ではあるが…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 呼吸を鮮明にするため、特段に意識的に、それを変化させる様な事を、してはならない。 もし、その様にするならば、定力を育成する事はできなくなる。 ただ、息を如実に覚知する事。 もし、息が明確でない時、その…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 禅相がまさに出現しようとするその直前、多くの禅修行者は、いくつかの困難に遭遇する。 特に、息が変化して、非常に微細になり、それが覚知できないほどになる場合がある。 もし、この様な現象が発生したならば…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> もし、連続して不断に、最初から最後まで約一時間、専注することができているのに、なお、禅相の出現することがないのならば、あなたは、次の段階に進まねばならない: 「私は身行を止めて、入息する」と修習し、…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (10/520) ある種の禅修行者は、この段階において禅相が出てくる。 しかし、もし、平静に一時間修習して後においても、禅相が出て来ないのであれば、あなたは次の段階の修習に入らねばならない: 「私は、息の全…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この段階において、あなたは、入出息の長短に関して、覚知を育成しなければならない。 ここにおける長短とは、寸法の長短を言うのではなく、時間の長短を、言うのである。 一回ごとの、入出息の時間の長短を覚知…
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 一回または二回の座禅・瞑想の内に、もし、あなたがいまだよく専注する事ができないのであれば、あなたは《清浄道論》の中に提案されている所の、数息法を採用する事ができる。この方法は、あなたの定力を育成す…
私の仏教書の翻訳文には、一番下に以下の様な、脚注があります。 1)Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi. 2)句読点等原文ママ。 3)★誤字脱字を発見された方は、当コメント欄にてご一報頂くか、または<菩提樹文庫>まで。 4)著者名。現時点では…