Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2018-08-01から1ヶ月間の記事一覧

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」5-16

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 16. 問: ダンス、歌を、音楽と演劇見たり(聞いたり)から離れるという学処を、詳しく説明して下さい。 答: ここで言う所の「ダンス」とは、ダンサー(女性・男性)が踊る所の、各種の舞踏、孔雀の舞とか、獅子…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」5-15

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 14. 問:正午というのは、12時を指すのでしょうか? 答:正午とは、12時を指すとは限らない。 各国、各地点の標準時間は、大まかなものに過ぎず、各人の所在地と合わない場合があるし、また一年12か月の間に、日…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」5-14

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 11. 問:虚言妄語学処について、再度、説明をお願いします。 答:「虚言妄語を離れる学処」は、一般的に不妄語戒と言われているもので、妄語する事を戒する戒条である。 実際、この戒条は非常に微細であり、口頭…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」5-14

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 彼(彼女)たちが、道によって入道するというレベルに到達し、かつ、受楽がある時、すなわち、罪を犯す(+と判断される)。 いわゆる「道によって入道すると言うレベルに到達」とは、己自身の性交管道が、相手の…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」5-13

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 非梵行学処には、二種類の構成要素がある:すなわち、 『淫を行したい心、及び道によって入道する事』。 欲邪行(学処)には、四つの構成要素がある:すなわち、 『淫を行してはならない対象、当該の対象に対して…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」5-12

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 上に述べた事柄は、増支阿含(Aṅguttarāgama)七法集《生聞経(Jāṇusoṇi Sutta)》の七種類の淫欲結縛からの出離を言う。 この時、従事する所の非正法【淫欲】の目的は、思より起こって身門を運用して道によって…

般若の独り言~質問力

仏陀のダンマを学び、指導者について座禅・瞑想を実践している方々は、自分の指導者に質問をすることが多々あると思いますが、この時、質問上手と、質問下手とでは、返ってくる回答が、天と地ほども違います。 故に、「質問力」というものを、是非鍛えて下さ…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」5-11

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (4)・・・(己自身の)目で思念しない、女人の目をみない、壁の外の女性、壁を隔てたところにいる女性の笑い声、話し声、歌う声または泣く声を聴かない・・・。 (5)壁の外、壁を隔てて女性の笑い声、話し声…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」5-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 10、 問:離欲邪行と非梵行学処について、もう一度説明をお願いします。 答:「邪欲行学処」とは通常、不邪淫戒と言っているものであって、邪淫を戒でもって除く戒条に当たる。 「非梵行学処」は、不淫欲戒、不浄…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」5-9

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 以下の状況においては、戒は不犯である: 1、已物想ーー己自身の物であると誤解して、他人の物をとった場合。偸盗の心がない為、不犯となる。 2、親厚取ーー親友、親密な者の物を取る。 親厚者(vissāsa)とは…

般若の独り言~《Vipassanāハンドブック》翻訳終了

本日、《Vipassanāハンドブック》の翻訳が完了しました。 連日の酷暑に、外出を控えていました為、翻訳が却って、捗りました。怪我の功名でしょうか? Ledī sayādawの《Vipassanāハンドブック》と、 パオ・セヤドーの『智慧の光』を比べてみますと、 修習の…

《Vipassanāハンドブック》23-5(F)★(翻訳終了)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> たとえば、道路を歩いている瞬間、我々は、足でもって、単純に歩んでいるのではあるが、しかし、その間には、多くの肢体の変化があり、これらの変化は、無常性または止滅(ママ)と呼ぶ事ができる。 その他の活動も…

《Vipassanāハンドブック》23-4(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 一来道(sakadāgāmimagga)に関連する智、すなわち二果は、二果を証した聖者であるが、粗雑な貪欲と瞋恚、怨恨を断じ除く事ができる。 不還道(anāgamimagga)に関連する智、すなわち三果は、三果を証した聖者で…

《Vipassanāハンドブック》23-3(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 出世間果と関連する智慧は、煩悩を断じ除くことができる; これらの煩悩は先に、出世間道と関連する智慧によって断じ除かれているが、この種の捨離煩悩は、止断(paṭippasaddhi-pahāna)と言われる。 また、涅槃…

《Vipassanāハンドブック》23-2(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 仏教の倫理学の方面では、戒学、定学と慧学などの三学(sikkhās)がある。 この三学のうち、一番目は戒学(silasikkhā)である。 戒学は三番目の煩悩、すなわち、違反煩悩を取り去るか、または捨離することができ…

《Vipassanāハンドブック》23-1(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (二十三)断遍知 仏教哲学の中において、五種類の断(捨離)があるが、 それらは必ずや、研究されるべきものである。 1、彼分捨断(tadaṅgapahāna。暫時断) 2、鎮伏捨断(vikkhamabhanapahāna) 3、正断捨断…

《Vipassanāハンドブック》22-4(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 心法の方面もまた同様であり、もし、心識の変化を観察する事が出来たならば、心所の変化もまた同時に観察する事が出来る。 特に、心法のうちの、受、想、行など等と、色法のうちの色、香など等、これらは内観(vi…

《Vipassanāハンドブック》22-3(F)(75/80)★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 観禅(vipassanā)の修習は、止禅(samatha)の修習と同じく、静かな環境において修習されるのが望ましいが、しかし、観禅は、いかなる場所においても、修習することが出来る。 成熟した観智は、非常に重要であり…

《Vipassanāハンドブック》22-2(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 今生今世において、我々は、各の如くの幸運に恵まれて、 仏法を聴聞しているのであるから、我々は、止(サマタ)・観(vipassanā)の修行に励み、物事の無常性を観じて、「無我随観智」を充分に、証得しなければ…

《Vipassanāハンドブック》22-1(F)★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (二十二)度遍知の解説 観智(insight)と関連する三種の智能は、三相の特色について、充分に物語っているために、これを度遍知(tiraṇa-pariñña)という。 観智と関連する三種の智とは: 1、無常随観智(anicc…

《Vipassanāハンドブック》20-16(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 人と衆生の、主要な特性とは、身・心の快楽(=楽しさ)に対する、渇望である; 現象界の顕著な特徴とは以下の通りである: 現象界の因または有為法は、一致性があるが、その一致性とは; 現象界の生・滅には、み…

《Vipassanāハンドブック》20-15(F)(70/80)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 仏教の哲学の中で、三種類の永恒不朽があるが、この三種類の不朽は、本文中において、特定の意義を付与されている。 この三種類の不朽は、パーリ語では: paññatti(概念または観念)、 ākāsa(空間)、 nibbana…

《Vipassanāハンドブック》20-14(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ポットの説明をする時、もし、人々が以下の様に分別できるならば(+それは好ましい): 泥土は一つの事物であって、ポットはまた、別の事物である事。 泥土は最終的な、基本的事物であり、ポットはただ、心が認…

《Vipassanāハンドブック》20-13(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> もし、人が、「このポットのような物は、世界に存在しているか?」と問うたならば、あれら、ニ種類の真理ーー真諦と俗諦を区別することのできない人々は、以下のように言う: 「このポットは存在する」 その後に…

《Vipassanāハンドブック》20-12(F)★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 三、無我相 精神と物質現象(心法と色法)は、実体がないと理解される。 また、それは無我相(anatta-lakkhaṇa)と呼ばれる。 anatta の文字の意味について考える時、先に atta について、理解しなければならない…

《Vipassanāハンドブック》20-11(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 悲苦(soka-dukkha)、憂傷苦(parieva-dukkha)、身苦、心苦と絶望苦(upāyāsa-dukkha)は、常に人と天人について回る。 機縁が熟した時、それらは常に、チャンスを伺がって生起する。 泥犂(niraya)地獄と餓鬼…

《vipassanaハンドブック》21-10(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (3)果報生苦 果報生苦について、煩悩生苦と業生苦の恐ろしさ(+と比べても)、生死輪廻の内において、苦趣に往生する事も、(+後二者と)同じ様に恐ろしい事柄である。 故に、多種多様な衆生は、苦の生命の…

《Vipassanāハンドブック》21-9(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (2)業生苦 業生苦のうち、身・口・意によって生じる所の不道徳的行為は、薫習された煩悩の結果であり、故にそれらは、煩悩と同じ様に強烈である。 その為、業生苦は、真正に、すべての聖者の懼れる所の「苦」…

《Vipassanāハンドブック》21-8(F)(65/80)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (1)煩悩生苦 煩悩生苦の内、貪は非常に恐ろしく、強烈である。 貪は、随時に生じる。 それは、それが「喜ばしい」と思える外境を見つけさえすれば、火薬に火をつけるが如くに爆発し、その威力は、非常に強大で…

《Vipassanāハンドブック》21‐7(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (三)壊苦(vipariṇāmadukkhata) 壊苦は、壊滅の状況を言う。 状況がいかに順調であうろとも、何時の日にか、身体は必ずや老衰し、破壊される。 故に、人、天人と梵天の身体または生命の存在は、真正なる苦であ…