Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2018-11-01から1ヶ月間の記事一覧

スポット翻訳【般若の智慧のなかりせば】(M-1)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (原文P223) 禅修行者: 禅師。あなたは、慈心の修習をあまり奨励しない様ですが、vipassanā の修行者が、慈心を修習するのは、あまり適切ではないのでしょうか? 禅師: 私は(+それらの人々が)慈心を修習す…

スポット翻訳【般若の智慧のなかりせば】(L)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (原文P228) 禅修行者: 四種類の波羅蜜について、私はよく理解することができません; 決意波羅蜜(adhiṭṭhāna)、 出離波羅蜜(nekkhamma)、 戒波羅蜜(sīla)、 諦波羅蜜(sacca)とは、何でしょうか? 禅師…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-63)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1)禅の修行者は、過去、現在、未来、内、外、粗い、微細、劣等、優秀、遠い、近いの色、受、想、行、想を遍知し、かつ証悟しなければならない。またそれは、究極色法と究極名法を遍知し、証悟しなければならない…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-62)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 唯一の道(観の修習ーー身随観) 上に述べた様に、14種類の身随観の中、12種類は止業処と観業処に属するもので、それはすなわち、入出息を随観するもの、32身分、四界と9墓地である; 残りの2種類は、純粋に、観…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-61)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <注31> パオ・セヤドーは、ある種の人々が、vipassanā の修習をする時、色法を観照しなくてもよいのだ、と主張している点について、度々言及している。 仏陀は《大牧牛者経》(Mahāgopālaka Sutta)の中におい…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-60)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 唯一の道=一つの門 仏陀の述べた ”ekāyano maggo” は直訳すると ”一筋の道” となる。我々はまた、それを ”唯一の道” と意訳する事ができる。 アーナンダ尊者が言った ”ekadvāraṃ” は、”一つの門” と訳するが、我…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-59)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 比丘たちよ、これは唯一の道である 我々は今、仏陀が《大念処経》のおいて述べた所の、非常に分かりやすい話を、更に容易に理解できる(+様になった)。 【比丘たちよ。 これは唯一の道である(ekāyano ayaṃ、bh…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-58)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (原文P 38) 当該の経の中において、仏陀は、以下の様に解説する: ”比丘たちよ。 何に対して証知しない、遍知しない、離棄しない、捨断しない者は、苦を滅尽することができないのか? 比丘たちよ。 眼に対して…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-57)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 仏陀が述べる所の、証知しなければならない一切、遍知しなければならない一切、捨断しなければならない一切とは、何を指しているのか? 彼は解説する: ●六内処(ajjhattikāyatana):眼、耳、鼻、舌、身と意処。…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-56)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <注26> 仏陀は《獲得經》(Paṭilābba Sutta)の中において、 以下の様に言う: ”比丘たちよ。 四念処は念の獲得と関連がある。 比丘たちよ。 これを念根と言う。” 《無礙解道・念処論》(Satipaṭṭhānakathā)の…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-55)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 四念処=五蘊=一切 では、四念処とは何か? それらは、念を建立せしめる所の、四種類の観照(注26)の対象である: 身(kāya)、 受(vedanā)、 心(citta)、 法(dhamma)。 我々はすでに、四念処が vipassan…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-54)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 前に述べた様に、仏陀は《転法輪経》の中において、己自身自ら証した智でもって、四聖諦を了知するためには、四種類の任務を完成させなければならない、と述べている: 五取蘊は遍知されなければならない、 それ…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-53)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (アーナンダ尊者が、このたとえ話の中で、守衛は、どの様な大きな生き物も、この町に入るかまたは離れる場合に、必ずあの門を通らなければならない事を知っている、と言う時、我々は、では飛ぶ鳥はどうなのか、…

般若の独り言~数法

ブログの読者の方から「仏教なんてものは無いのだよ (サヤレーは仏教、仏教って拘っているみたいだけど)」というお言葉を頂きました。 まさにその通りでして、私が 40年前に、タイの森林寺院で修行を始めた時、タイの方々に「ブッディズム」と言っても、全…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐52)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <注24>: 仏陀は、《Kuṇḍaliya Sutta》の中において、以下の様に言う: ”クンダリヤよ。 四念処はどの様にして修習するのか? どの様に多く修習する事によって、七覚支を円満させる事ができるのか? ここにおい…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐51)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 町を守る守衛は、自分自身はどれほど多く己自身の生き物が入って来たか、出て行ったかに、関心がない。 しかし、彼はどの様な大きな生き物(猫、人間、馬、象など)であっても、唯一、このひとつの門を通ってしか…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐50)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> その後、アーナンダ尊者は、ウッティヤに対して、一道門のたとえ話をした: ”賢友、ウッティヤよ。 まさに国王の(+所有する)最も遠い町において、堅固な保塁、城壁、門構えと一つの門(ekadvāraṃ)があるとし…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐49)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 一道門 Vipassanā に関する基本的な検討を終了するにおいて、我々は、《増支部・ウッティヤ經》(Uttiya Sutta)を、見てみようと思う。 經の中において、以下の様に言う: 有る一人の、名をウッティヤという外道…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐48)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 疑いもなく、あなたがその近因、すなわち、触所縁の身浄色への衝撃を、観照する事ができるのでなければ、あなたは、身触生受の生起を観照する事は、できない。 これこそが、なぜ身触生受を観照する為には、先に四…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐47)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 我々はすでに、究極諦に基づいて ”膝が痛い” とはどういう事であるかを、解説した。 では、今、私はあなたに聞きたい; 本当に膝が痛いのであろうか? 否! それは、一種の表現方式にしか過ぎない。 痛みは一種の…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐46)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 触所縁とは、地界(pathavīdhātu)、火界(tejodhātu)、または風界(vādodhātu)の三種類の法の一つを、言うものである。 触所縁が、不断に、我々が膝と称している所の、身十法聚の中の身浄色にぶつかり、撃つ時、こ…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐45)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 多くの経典において、例えば《中部・六六經》(Chachakka Sutta)では、仏陀は、この種の身受が如何に生起するかを、解説している: ”身と触(kāyañca paṭicca phoṭṭhabbe ca)の縁によって身識(uppajjati kāyav…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐44)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 観(一時に一つの所縁) この点に関して我々は、仏陀が、四念処の随観において用いた言葉を、研究してみたいと思う。 なぜ、彼は ”身” ”受” ”心” ”法” を二度、繰り返したのか? 例えば ”身随観身において” (kāy…

般若の独り言~主婦の愚痴

私は時々、駅前の洋服店に行く事があります。 出家のサヤレーは外出時、色とりどりの私服を着る事はないので、服を買いたい訳ではないけれど、以前、ここの店主にお世話になった事があり、時々、店を覗きに行きます。 その時、たいてい一人または二人ほどの…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐43)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 観(三種類の遍知ーー四念処) 仏陀は、パーリ聖典の多くの経典の中において、何度も、色々な方式によってこの三種類の遍知を教え、教導している。 聞く者の好みに応じて、彼は vipassanā行 を異なった類に分けた…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐42)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ここにおいて、我々は以前に言及した様に、仏陀は、五取蘊または六処に対して法随観法せよ、と説いたが、その観照の所縁は、色法と名法の二種類の他ならない。 それらは vipassanā行 の二種類の分類型である。 こ…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐41)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 観(法随観ーー六内処、六外処) こうしたことから、仏陀は《大念処経・法随観》において、この種の、六種類の内・外処の観智を教導したのである: 【次に、比丘たちよ。 比丘は六種類の内・外処 (chasu ajjhatt…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-40)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (原文P25) 観(三種類の遍知ーー六内処、六外処) 《内処遍知經》(Ajjhattikāyatanaprijānana Sutta)において、仏陀は同じ様に、三種類の遍知の方法でもって六内処を遍知しなければならない、と教えている。 …

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐39)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (2)遍知(parijānaṃ): ひとたび、禅の修行者がすでに五蘊とその因を証知したならば、次には、それらの無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta)の本質を遍知しなければならない。 この種の審察(=省察…

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-38)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 仏陀はまた、この種の、五蘊に対する観智を、三種類の遍知と呼んでいる。 例えば彼が《蘊相応・証知經》(Abhijāna Sutta)の中に、述べている様に。 ” 1)比丘たちよ。 色に対して、証知しない者(anabhijānaṃ…