Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2018-02-01から1ヶ月間の記事一覧

(新)般若の独り言~台湾へ行きます

2月23日から始まるリトリートに参加する為、台湾に行きます。 ブログ、二週間お休みします。 場所は阿里山の麓、嘉義にある法雨道場、台湾テラワーダ発祥の地です。 指導頂くのは、緬甸(ミャンマー)からおいでになる P尊者、パオ出身の比丘です。 彼の口癖…

(新)般若の独り言~老いと死の受容

私も来年は古希になります。 思えば遠くへ来たものだ(笑)。 老年期ともなれば、残された歳月の少なさを思って、ふと憂鬱になる事があります。 死ぬのも怖いですよね(長期に寝込むのも困るし、死ぬ瞬間も怖い)。 有情が輪廻するのは、自分なりに分かって…

(新)般若の独り言~テラワーダと大乗仏教

私は子供の頃から仏教が好きで、大乗経典を手当り次第乱読していたのですが、大乗経典は何を言いたいのか、読んでも読んでもよく分からず、独学の為、教えてくれる師もいませんでしたから、大変に困りました(注1)。 仏教に人を救う力があるのかどうか、困…

(新)般若の独り言~人生の目的

本日、MSNの記事を見ていましたら「48歳で課長に成れなかった男の話」が載っていました。 もちろん、この男性(A)が<課長に成りたくて、いかに奮闘したか>というこのWEB記事内容が、彼の人格のすべてを現すわけではありませんから、私が以下に書く事は、彼…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-125

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8-10-3 捨離一支:具備二支 ここにおいて、知っておかねばならない事、それは一支を捨離するとは、喜を捨離する、という事を意味する事である。 しかし、それは、安止定の刹那において、初めて捨離されるのである…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-124

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 詳細な説明:心所依処に依存して生起する所の、一つひとつの心は、多くの(+世)代の微小粒子を生じる事ができるが、これを、心生色と言う。 似相(たとえば安般念)を縁にして、それを目標とするジャーナ心と近…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-123

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <訳者より一言> 本日より、ようやく、パオ・セヤドー著「顕正法蔵」の翻訳に戻ります。 去年の11月2日、<マハーカルナー法友会>解散事件が発生した後、急遽『「偽比丘」の見分け方』『「テラワーダ仏教在家居…

(新)般若の独り言~自己紹介

本日、当ブログにて、<是誰庵>改め、般若精舎建立(という勝手な行い~笑)をしましたので、簡単な自己紹介を。 私は神戸生まれの在日台湾人です。祖母の代からですから、三世に当たります。 小・中学校は神戸のインターナショナル・スクール(華僑系)に…

是誰庵のひとやすみ~精舎建立

私は1999年~2001年の間、緬甸(ミャンマー)のモーラミャインにある、パオ僧院本山で出家し、sayalay(10戒)として、二年程、修行に勤しみました。 その時は、日本に残した息子たちも結婚しておらず、背負うべき責任もありましたので、還俗して日本に帰…

「身念処」6-3(最終版)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ③ ネン: 修行の様子はどうですか? 学生: 私は、以前は妄想が比較的多かったですが、今は修行がよく分かるようになりましたーーその為に、私は、vipassanaについて、いとこや、知人に、話して聞かせたいと思い…

「身念処」6-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ② ネン: あなたの修行の進み具合は、如何ですか? 修行に関して、何か疑問がありますか? 学生: 私は修行する時、四種類の姿勢の中から、比較的修行しやすいものを選んでいます。 たとえば、歩く姿勢、です。 …

「身念処」6-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <アチャン・ネン問答篇>(p141~202/抜粋) ① アチャン・ネン(以下ネン): あなたは妄想しますか? 学生: よく妄想します。ある時は妄想が大変に多く、有る時は少ないです。 ネン: あなたは、なぜ妄想する…

「身念処」5-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 付録A <一つの典型的な状態における識の例(心王ー心所)> 識ーー主に、七個の心所法によって構成されているーーそれは、触、受、想、思、彼所縁、命根、作意と呼ばれ、この七個の心所は<遍行>と呼ぶ。 とい…

「身念処」4-6

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 4)もし、あなたが、ただ思考(黙念)の方式をのみ使って、無常・苦・無我が理解しようとするならば、煩悩を断じ除くことはできない。 というのも、あなたは実相般若を用いて、真理を体験している訳ではないが故…

「身念処」4-5

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 3)修行者は、察覚力を保持し、三心が、<今・ここ>から離れていないかどうか、知らなければならない。 そうすれば、修行者は、何度も<今・ここ>に戻って来ることができる。 心の性質とは、それが、さまざまに…

「身念処」4-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 修行者は、以下の点に注意する事: 1)四念処を修して、涅槃に到達する道は、仏陀の教えに基づくものである。修行者の、修行による成果は、四念処修法の自然性と天賦、前の生においてなした修行体験における助縁…

「身念処」4-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 冷淡さ(捨)は、中道ではない。 ある種の人々は、己の心をして、愛も憎悪もないようにしたいと思っているが、それは間違いである。 このようにすると、「捨念」が生起する; 一切の法は無我(コントロールできな…

「身念処」4-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 4-1 総論 Vipassana修法は、七清浄、16階智、三解脱門(涅槃へと導く方式)、四念処など等を含む。ただし、上記の中で、真正に身念処に関連するのはーー特に四つの主要な姿勢と二次的な姿勢である。 その他の念処…

「身念処」4-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 第四章 総論 「ゴータマ大師、 何の因によりて、何の縁によりて; なぜ、如来が滅度した後、聖教は常に存する事ができないのか? また、ゴータマ大師、 何の因によりて、何の縁によりて; 如来が滅度した後、聖教…

「身念処」3-17

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 16、思惟反射智 この智においては、修行者は、前のレベルにおける幾つかの智の、体験・証悟した所の、己自身に関する五つの事柄について、思惟する; 1)道智(第14階智)(この道より来た)。 2)果智(第…

「身念処」3-16

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 15、果智 七清浄の中、この智は、智見清浄と呼ばれる。道心(道識)は、その一つ前の智(第14階智)において生起するが、それは涅槃を所縁とし、かつ、完全に惑を断じているーーその後、この智の内において、果心…

「身念処」3-15

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 14、道智(智見清浄) この智は、道心の中に生ずる。道心は、種姓智(第13階智)を助縁とし、第13階智と同様に、この智は、涅槃を所縁としている。しかし、この智は、完全に惑を断じており、また、心と所縁は、…

「身念処」3-14

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 13、種姓智(行道智見清浄) この智は、道智(第14階智)に向かう道刹那によって誘発される所の智慧であり、また、この智の、前の段階の、その他の階智と異なる所は、この智は、涅槃を所縁としている事(出世間…

「身念処」3-13

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 12、随順智 この智は、一個の完全な智慧である為、修行者をして、四聖諦を体験・証悟せしめる事ができる。 この智は、前の段階のいくつかの階智によって誘発され、生起するもので、この階智における、勇猛な智慧…

是誰庵のひとやすみ~「身念処」が終わったら

アチャン・ネン著『身念処』の翻訳が、佳境に入りました。16階智の説明が分かり易くて、非常に良い。 翻訳のし甲斐があります。 <付録/質疑応答篇>(P141~)は、内容が重複しているので、一部割愛するとして、後一週間程で完成でしようか。 これで、心置…

「身念処」3-12

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 11、行捨智 この智は、身・心(身・心の行)への冷淡さを誘発し、二度と再び、身・心に対する執着と貪恋を生じる事がないーー身・心は、長期に及んで、我々が「私」「私のもの」「私自身」として執着して来たモ…

「身念処」3-11

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hot> 10、審察随観智 此れより前の、いくつかの観智において、畏怖が生じる事によって過患を知り、厭離が生じ、それによって、身・心から解脱して、脱出したいという欲が誘発された。 この智は、身・心の解脱を欲する…

「身念処」3-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8、厭離随観智 一つひとつの階智(+を昇る時、そ)の階智毎に、智慧はますます強くなる。 この智において、身・心(五蘊)に対する厭離の感覚が生じる。 この事は、先の階智において、身・心の禍を観察した結果…

「身念処」3-9

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 7、過患随観智 第六観智(怖畏ママ)を証悟した時、この智が誘発される。 この智は、まさに、身・心をば、危険、驚異の源であると、見做す。 第一階智からこの智まで、一つひとつの階智は、皆、次の階智の生起を誘…

「身念処」3-8

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 6、怖畏(ママ)現起智 この智において、身・心は有害であるという智慧が生起する。というのも、第五階智において、身・心の崩壊現象を見た為、身・心は不実(=実体がない)であるという感覚が生起するーー身・心…